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『ダーティハリー』:刑事(デカ)の銃はでかい

著者 大勝 裕史(オオカツ ヒロフミ)

 『相棒』、『踊る大捜査線』、『あぶない刑事』、『西部警察』など、刑事ジャンルは日本でもテレビと映画にまたがる人気コンテンツです。このジャンルの魅力はどこにあるのでしょうか?そもそも刑事(デカ)は公務員のはず。しかし法の番人であるはずの刑事が、コンプライアンスなど糞食らえで犯人を追いかける姿にこそ、このジャンルの面白さはあるのではないでしょうか。品行方正なコンプライアンス刑事ではドラマが生まれません。やはりこのジャンルの魅力は、たとえ法に背いても正義を求める刑事の姿にこそあるのです。
 クリント・イーストウッドの出世作の一つである『ダーティハリー』(Dirty Harry, 1971)においても、法と正義のジレンマがドラマを生み出しています。イーストウッドが演じる刑事ハリー・キャラハンは、過剰な捜査手法をいつも上層部から咎められています。彼は担当を外された事件を独自に追い、犯人を追い詰めて射殺し、最後に警察バッジを投げ捨ててしまいます。法と正義の確執を抱え、警察内で孤立するアウトサイダー的な刑事は、映画史的にはフィルム・ノワール(1940-50年代の暗い犯罪映画です)の遺産と考えられます。[1]
 この4回の連載では、『ダーティハリー』を出発点にして、フィルム・ノワールの捻れた系譜性をグローバルに辿りたいと思います。

[1] 犯人追及のために法を踏み越えてしまう鬼刑事を描くフィルム・ノワールには、次のような作品があります。『歩道の終わる所』(Where the Sidewalk Ends, 1950)や『危険な場所で』(On Dangerous Ground, 1951)や『復讐は俺に任せろ』(The Big Heat, 1953)など。

 ということで、今回は刑事キャラハンの無法者すれすれのタフなアクションとセリフを深掘りしたいと思います。最初の逮捕劇を見てみましょう。

 キャラハンが食堂でサンドイッチを頬張ると、目の前の通りで銀行強盗が発生します。彼は「クソっ」(Oh, shit)と吐き捨て店外に出ていき、もぐもぐしながら、通行人もいる市街地で白昼堂々マグナムをぶっ放します。犯人の車は横転して、露天商の花屋に突っ込み、消火栓から水が噴き出します。さらに逃亡する犯人に一人一人狙いを定めて発砲します、もぐもぐしながら――この大胆不敵な逮捕劇も彼にとって日常茶飯事なのです。
 撃ち合いが終わると、犯人の一人が重傷を負って路上に倒れています。キャラハンは男に近づいていきます。現代的な刑事ジャンルでは、被疑者を逮捕する場合はミランダ警告(被疑者の権利)が読みあげられるのが通例ですが、コンプライアンス上等のキャラハンは当然そんなものは無視。道路に横たわる男の手のすぐ先には銃が転がっていて、素早くその銃を手にすれば反撃も可能という状況です。手負いの被疑者に向けて、キャラハンは上から銃を構えて凄みます。

I know what you’re thinking. “Did he fire six shots or only five?” Well, to tell you the truth, in all this excitement I kind of lost track of myself. But being as this is a .44 Magnum, the most powerful handgun in the world, and would blow your head clean off, you’ve got to ask yourself one question, “Do I feel lucky?” Well, do you, punk?

お前の考えていることはお見通しだ。「やつは6発撃ったか、それともまだ5発か?」真実を教えてやるよ。興奮しすぎて何発撃ったか覚えちゃいねえ。だがこいつは44口径マグナム、世界最強の拳銃だ。お前の頭をきれいに吹き飛ばせる。さて自分に聞いてみな。「運は俺に味方するか?」どうだ、チンピラ?

『ダーティハリー』(Dirty Harry, 1971)

 マグナムは6連発銃です。犯人からすれば、キャラハンのマグナムに弾が残っているのかどうかは死活問題です。運が味方するなら、言い換えれば、キャラハンが6発撃ち終えていたならば、男は銃で反撃して逃げおおせるかもしれない。しかし運が味方しないならば、つまりキャラハンの銃に1発残っていたならば、反撃すれば即座に頭を吹き飛ばされて即あの世行きでしょう。結局、男は反撃を諦めます。そして立ち去ろうとするキャラハンに、弾丸が残っていたのか教えてくれ、と尋ねます。キャラハンは犯人に向かってトリガーを引きます。が、発射されませんでした。既に撃ち終えていたのです。何という答え合わせ!
 「何発撃ったか覚えちゃいねえ」という言葉は、明らかにハッタリだったのです(撃ち合いの中でも冷静に弾数をカウントしていたわけです)。興味深いことに、全く同じセリフをキャラハンは、最終対決で連続殺人犯スコーピオに対しても繰り返します。しかしその際は、弾丸が残っており、反撃に転じようとしたスコーピオを射殺しています。

 キャラハンは、このハッタリを確信犯的に使い分けています。しかし何のために?繰り返されるハッタリは意味が全く違います。最初の強盗犯には反撃を断念させるために、最後の殺人犯スコーピオに対しては反撃を誘い出して射殺するために、このハッタリが用いられているように思います。ここには普遍的な人類愛などとはほど遠い、彼流の正義感が現れているように見えます。手負いの銀行強盗は命だけは許すが、女性や子供を殺めた殺人犯は絶対に容赦しないという。死の裁きの決定を一個人がしてよいのか、という考えもあるでしょう。実際に、かつて映画批評家のポーリン・ケイルはこの映画を、悪人は法など無視して殺せばよいと考える「ファシスト的な」映画だと酷評しました。
 それにしてもなぜキャラハンはこれほど大きな拳銃を携帯しているのでしょうか。素早く構えて発射できる小型の拳銃の方が、よほど実用的に思えます。実際に、相棒チコが使う拳銃も、連続殺人犯スコーピオが最後に持っている拳銃も38口径です。二人の拳銃に比べると、キャラハンの44口径マグナムは銃身も明らかに長いです。このようにキャラハンのマグナムの大きさと破壊力を強調することには、演出的な意図があります。なるほどマグナムが彼の攻撃的な男性性を表象しているのは確かですが、それだけでなく、映画史的な理由もあります。彼は現代の路上に舞い降りた荒野のガンマンなのです。その話は次回に譲りましょう。


大勝 裕史(オオカツ ヒロフミ) 
千葉商科大学基盤教育機構准教授。早稲田大学文学部英文学コース助手、東京経営短期大学経営総合学科専任講師を経て現職。専門はアメリカ映画研究、特にヴェトナム戦争映画を中心とする戦争映画。『アメリカ映画史入門』(三修社、2024年)においてプレストン・スタージェス、ジョージ・キューカー、マーティン・スコセッシ、ロジャー・コーマン、戦争映画、『タクシードライバー』の項目を執筆。『映画史の論点:映画の〈内〉と〈外〉をめぐって』(ミネルヴァ書房、2023年)所収「第二次世界大戦戦闘映画『特攻大作戦』と西部劇『ワイルド・アパッチ』──ヴェトナム戦争中のロバート・アルドリッチ」を執筆。最近の学術的な関心は、フィルム・ノワールにおける戦争の痕跡、現代のアニメや漫画に見られるグローバル資本主義の表象、AIが人文系の学問や教育に与える影響など。

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