2025.09.26 NEW 著者のコラム 世界文学の証言者、メアリー・コラム:第4回 ジョイスとの再会、そして「送ることのなかった人生への渇望」 著者 小林広直 目次はじめに独立後のアイルランドへ、そしてロンドン、パリ、ハワイコラム夫妻のアメリカ滞在を追って②コネティカット→NYジョイスとコラムの共通点と相違点エルマンが描くジョイスとコラムが描くジョイス コラムの『ユリシーズ』への評価ジョイスの〈声〉おわりに はじめに メアリー・コラム『人生と夢と』(多田稔監訳、三神弘子・小林広直訳、幻戯書房、2025年)を紹介する本連載も、いよいよ第4回、最終回となりました。今回は表題にもあるようにジェイムズ・ジョイス(1882-1941)との「再会」について――1930年~1932年のパリを中心に――お話ししたいと思いますが[1]、その前に、前回の連載ではコラムのダブリン時代(第8章~第16章)にフォーカスをしましたので、その後のアメリカ時代を簡単に触れておきたいと思います。 コラム夫妻のアメリカ滞在を追って①ピッツバーク→NY→シカゴ→NY 本書の第17章から第32章までの目次は、下記のとおりです(場所については[]で補いました)。 第17章 出発 [ダブリン]第18章 アメリカでの最初の数週間 [ピッツバーグ]第19章 みすぼらしいビークマン・プレイスのアパート [ニューヨーク]第20章 シカゴ 一九一五年第21章 フランス人が営む下宿屋――アイルランドの反乱 [ニューヨーク]第22章 生活費を稼ぐ [ニューヨーク]第23章 詩人たち、そして彼らの葛藤第24章 アメリカで暮らす一人のフランス人作家第25章 アイルランドに帰る第26章 ロンドンのボヘミアン社会第27章 様変わりしたヨーロッパ [ロンドン→パリ]第28章 ハワイでの幕間第29章 エリノア・ワイリー [コネティカット]第30章 コネティカットでの仮住まい第31章 エリノア・ワイリーの死第32章 文芸批評家 コラム夫妻は第1次世界大戦(1914年7月~1918年11月)が始まって間もない、1914年8月にポーリックのおばが滞在するアメリカ、ピッツバーグに向かい、その後の主たる住まいはずっとアメリカにありました(メアリーは1957年にニューヨークで死去)。目次にもありますように、アメリカ国内でも様々に移動をしていることが見て取れます(この越境性や移動性の問題は世界文学との関連で後ほどお話します)。第18章ではニューヨークの港に到着し(「船旅はもちろん非常に不快なものだった」(262頁、以下太字の強調はすべて引用者)とありますが、やはり「もちろん」というコラムさんの〈毒舌〉が素敵です)、エリス島で種々の「検査」を受けたときの記述も非常に印象的ですが、最初の滞在地であるピッツバーグについて「おそらく、私の記憶は少しロマンティックで曖昧なものになっていると思う」と冷静な自己分析を行った上で、「あらゆることが非常に速い速度で進行すること、ダブリンで慣れていたゆったりした生活とは異なることに、私は驚かされた」(271頁)と書いています。この点は本連載第2回で書いた、アイルランドの田舎からダブリン、そしてアメリカへと、前近代的な田舎の生活から文芸復興運動に湧いていた首都、さらに近代化が進んだ都市と移動していることによる衝撃故であると分かります。まさにこの点は、「旅行記」としての本書の魅力、と言えそうですが、渡米後は、アイルランドとアメリカ(祖国と新天地)、あるいはヨーロッパとアメリカ(旧世界と新世界)の比較が様々な点から成されますので、その意味では「文化的資料」としての読み応えも充分にあるかと思います(文学の受け止められ方の違い――アメリカはやはり当時から実学志向が強かったようです――はもちろんですが、職場での自己主張の仕方、女性の社会的役割などの〈常識〉の違いは非常に示唆に富んでいます)。 アメリカでの出会い、「交友録」という側面では、有名人を中心にピックアップいたしますと(ミーハーですみません…)、第18章では(ピッツバーグ)ウィラ・キャザー、第19章では(マンハッタン、ビークマン・プレイス)ヴェイチェル・リンゼイ、J・B・イェイツ(詩人W・Bの父)、エリノア・ワイリーやジョン・クイン、第20章では(シカゴ[2])ハリエット・モンロー[3]、エドガー・リー・マスターズ、シャーウッド・アンダーソン、第21章では(マンハッタンの下宿屋)レオン・トロツキー[4]、第22章では(マンハッタン、賃貸アパート)ポール・ポワレ、イヴェット・ギルベール、リヒャルト・シュトラウス、アルバート・アインシュタイン、ロバート・フロスト、エイミー・ローウェル、エラー・ウィラー・ウィルコックスなどの名前が登場します。 時系列順の記述はいったんここで終わり、「詩人たち、そして彼らの葛藤」と題された第23章では、のちに自ら命を絶つことになる若い詩人たち、ハート・クレイン、そしてグラディスとドロシア・クロムウェル姉妹が中心的に描かれます(特に後者の双子姉妹については、やはり第一次世界大戦でのPTSD(当時はshellshock)との関連が指摘できそうです)。続く第24章ではアンリ・アントワーヌ・ジュール=ボア(1868-1943)という、非常に〈変わり者〉のフランス人作家(お恥ずかしながら、本書を読むまで私は彼の存在を全く知らなかったのですが)との交流が描かれておりますが、死ぬときには故郷のマルセイユに帰りたいと願いつつも、ニューヨークの病院で没し、ブルックリンに埋葬された彼の姿は、図らずもコラム夫妻の将来を予告しているようにも思えてしまいます(夫妻は現在、ダブリン近郊の墓地に眠っていますが、どちらも亡くなったのはニューヨークでした)。本稿を書いていて気がついたのですが、コラムがジュール=ボアと出会ったのは、ジョン・クインの家、つまり時期的には第19章、1914年の冬から翌年の春の頃ですので、この第23章では彼の出会いから1943年の死までを描いた本章は、約30年の月日が流れているということになります。祖国への強烈な愛を抱きながらも、「アメリカで暮らす一人のフランス人」という章題が示すように、ここからエグザイル(exile)というテーマを抜き出すことができるでしょう(後述するようにこの点こそがコラム夫妻とジョイスを繋ぐものでもあります)。 [1] 本稿は2025年5月16日に開催された「終わらない読書会」第10回(オンライン)での発表原稿に加筆・修正をしたものです。第一部でご登壇くださった三神弘子先生、本稿の筆者と共に本会を共同主催している南谷奉良さんと平繁佳織さんのみならず、参加者の多くの皆様からも貴重なコメントや質問を頂きました。改めて、記して心よりお礼申し上げます。https://a3hsn.org/reading/[2] シカゴについてコラムは以下のように書いています――「一九一五年の春において、シカゴは知的にはニューヨークほど洗練されてはいなかったが、精神的なレベルではニューヨークよりも刺激的な街のように感じられた。とはいえ、シカゴもニューヨークも、ヨーロッパの古い都市と比べると、その反応は単純で、深く文学を理解しているとは思われなかった。私はいつも、シカゴの知識人の多くがニューヨークに移ってしまったのは残念なことだと感じていた。なぜなら、当時のシカゴは、唯一無二の個性を持った街としての地位を確立しつつあり、中西部特有の文化を発展させようとしていた矢先だったからである。」(300頁)。ここでのコラムの分析は、資本主義が選択(多様性)よりもむしろ集中(一極化/画一化)の原理に従ってしまうことを喝破した先見性のある指摘だと思います。[3] モンローとの確執(というより、単純にケンカと言った方がいいでしょうか)は、第32章で詳述されています。モンローさんみたいな人っていますよ、ね。[4] この第21章の下宿屋で、コラム夫妻は1916年4月のイースター蜂起についてのニュースを新聞で知り、強い衝撃を受けます。 独立後のアイルランドへ、そしてロンドン、パリ、ハワイ 本書の概観を続けましょう。第25章は1923年の夏、夫妻が祖国アイルランドに戻った際の記述で、当時は内戦(1922年6月~1923年5月)が終わったばかりでした。ダブリンの街に銃弾や爆破の痕跡が見られただけでなく、人々のあいだにもアイルランド自由国、つまりはアルスターの6州が英国の一部であるという状況を巡って、激しい意見対立や互いへの嫌悪感、即ち分断が生じていることにコラム夫妻が心を痛める場面が度々見られます。夫ポーリックのハワイでの仕事が事前に決まっていたため、この時の帰郷は数週間だったようですが、「革命の渦中にあるアイルランドをもう少し見て回りたいと言った」彼とは別に、メアリーは「少しばかり心を落ち着かせ」「単に楽しめる時間」を過ごすべくロンドンで数日滞在します(388頁)。 そのときの出来事を描いたのが第26章で、ロンドンの「パブ、つまりあらゆる社会的身分の男女が集まる社交場」(390頁)での一幕が描かれています。コラムがアイルランド出身の、しかも女性であるということが少なからずあったのでしょう、彼女に対し見下したような態度で話す男たちが多い中、アイルランドの詩のことを教えて欲しいという求めに対し、A・Eの詩を見事に暗唱して彼らを黙らせるだけでなく、感傷に浸らせるシーンは圧巻です(もちろん、武勇伝的な事実の誇張が全くないとは言い切れないでしょうが)。コラムが朗読したのは次のような詩です。 「約束」暗澹たる気持ちになることなかれあなたの夢が飛び去ってしまったとしても、心の広間は空っぽで石のように静まりかえっているとしても、子どもたちが旅立ったあとの年月のように 寂しく孤独であるとしても。優美で華奢な子どもたち、あなたの夢はこれからも生き続ける。純心で美しいものはすべて純粋なるものへと向かう。嘆息することなかれそれらの道は必ずや信仰に導かれる。心優しき可憐なあなたの夢の数々、ほんの一瞬の間に生まれて消えた夢にも あなたはその場所で出逢うことだろう。輝く大気の中で、それらは永遠に死ぬことのない存在となったのだ。ただ想うだけで心が痛む獲得しえない美しさ、目の中に、そして口元に、明滅しながら浮かんでは再び消えてゆく光。その儚い美しさをあなたはきっと獲得するのだから。(398-99頁) コラムはこの引用の後、「失ってしまったあらゆる夢、叶わなかったあらゆる夢、獲得しえなかったあらゆる美に対する嘆き。私の朗唱により、周りの人々の表情が変わったような気がした」(399-400頁)と書いていますが、恐らく彼女はここでアイルランドの独立のために死んでいったかつての友人たち、ピアスやマクドナーのことを考えていたことでしょう。多くの犠牲が払われたにも拘らず、ダブリンの街の魅力が失われてしまったように彼女には感じられたからです(実際、この点こそ植民地主義が終わったのちも、その経済的かつ文化的支配構造は後遺症のように残り続ける、というポストコロニアル的な問題であり、事実アイルランドは長らく不況に苦しみ続けました)。少し戻りますが、第25章には以下のような記述があります。 ダブリンの街の雰囲気はすっかり変わっていた。それはもうジョイスが『ユリシーズ』で言祝いだ街でも、アビー・シアターとゲーリック・リーグを生み出した街でも、ジョン・シングの演劇に怒り、暴動を起こした街でもなかった。ヴィクトリア朝時代を生き抜いた有名な人々、トリニティ・カレッジとオコンネル橋の間を、週に何度か行き来すれば会うことができた人々は一体どこへ行ったのだろう。[中略]日々の営みとして詩を書くことは、もはや人々が競って行うことではなくなっていた。ある有名人によれば、若い男たちは皆、憲法を書くのに忙しいのだそうだ。確かに、ソネットを書くよりは憲法を書く方が簡単なのである。(382-84頁) 本連載第1回で書いたダブリンの「黄金時代」は過ぎ去っていた、つまり、A・Eの詩の一節に見られるような「失われてしまったもの」に対する「暗澹たる気持ち」を抱いていたのは他ならぬコラムだったのでしょう。 註:A・Eによるこのコラムの肖像画は、上述したアイルランドへの一時帰国の際の、1923年頃に描かれたと想定されます(229-30頁)。ただし目録上ではこの絵は1924年の作とあります(23年の段階ではあくまでスケッチのみだったのでしょうか)。 章の解説に戻ります。ロンドンで夫と合流したコラムは、次の第27章でそのタイトル通り「様変わりしたヨーロッパ」を描きます(ロンドンからパリ)。この章では、T・S・エリオット、オットリン・モレル、エズラ・パウンドなどが活写されますが、サラ・ベルナールの舞台を10年ぶりに見ながら、コラムは「私たちがかつて知っていた世界は消え去りつつあるのだ」、「〈出ヨーロッパ〉が始まりつつあった」(414-45頁)という感慨に至ります。一般的な世界史の流れからすれば、アメリカが世界の覇権国となったのは(いわゆる、パクス・アメリカーナ)第一次世界大戦後、ということになるわけですが、コラムの場合は世界的な大転換を痛感すると同時に、祖国の変貌ぶりへのショックもあったことでしょう。仕事の都合というのが第一の理由でしょうが、コラム夫妻がなぜアイルランドに帰らなかったのか、ということは本書の中でも説明されることはありません。まさにヨーロッパからアメリカへと世界の〈中心〉が移動してゆくその時代を、実体験として目の当たりにしたのが彼女の人生だったのだということに思い至ります。 続く第28章は「ハワイでの幕間」という題で、ハワイが舞台です。正直なところ、三神先生との翻訳チェックや註を付ける作業で最も時間がかかったのがこの章でした。ハワイの文化や歴史についての知識が下訳を担当した私にまるでなかった、というのが最大の理由ですが、同時にハワイ特有の風景描写が非常に技巧的であるというのも一因にあったかと思います。オアフ島のホノルルだけでなく、ハワイ島の奥地、カラパナまで向かう様子は一種の冒険譚的な魅力もあります[5]。 [5] 本書の註には書かなかったのですが、このカラパナという町は1990年の熔岩流の災害によってその大部分が消失してしまった場所でもあります(2018年のキラウエア火山の噴火でも甚大な被害がありました)。コラム夫妻がお世話になった家の〈大旦那〉は、どんどんアメリカ化してゆく時代の流れを感じてのことだったのでしょう(当時ハワイはまだ準州でした)、「私たちは滅び行く民族なんです」(433頁)と述べるのですが、現在のカラパナの状況について知ったとき、非常に驚きました。復興には長い時間がかかるでしょうが、いつか訪れてみたい場所です。 コラム夫妻のアメリカ滞在を追って②コネティカット→NY 第29章から第31章は(主たる舞台はコネティカット)、アメリカの詩人エリノア・ワイリー(1885~1928年)が主人公の3章と言ってもいいでしょう。本書を読む限り、彼女は最も親しい友人であったように思われますが、批判すべき点は批判し、称賛すべき点は称賛する、批評家としてのコラムの公平公正な評価と描写は、それまでと変わりません。ただし、エリノアの半生がこのように詳細に描かれることの最大の意味は、本書では頑なに秘匿されております。本連載の1回目から繰り返し申し上げているので大変恐縮ですが、やはりこの点はぜひ本書の「訳者あとがき」をお読みください(私自身、その事実に大変驚くと共に、隠されたコラムの想いの深さを想像するに至り、思わず涙ぐみました)。エリノアとの機知に富んだ会話、彼女の突然の死、そして彼女の詩人としての業績についての評と追悼の祈り、いずれも大変忘れがたい筆致で書かれています。この3章では他にも、ユージン・オニール、ヴァン・ウィック・ブルックス、ヘンドリック・ヴァン・ルーン、ヘンリー・ロンガン・スチュワートなどが描かれます。 第32章「文芸批評家」は、前半では「身の回りのものすべてがエリノアを思い出させ」る冬の「陰鬱で荒涼とし」たコネティカットを一時的に離れ(489頁)、ニューヨークの友人の家を転々とする様子が描かれています。ちょうど1928年の年末から翌年にかけてですから、世界恐慌が始まる直前の時期です。本章後半では、本連載第1回目でも長めに引用しましたが、ダブリンにいた頃にイェイツから受けた忠告の回想が指し挟まれ、文芸批評家としての苦労話、さらには彼女のプロとしての信条も語られています。 それでも、反論することが許されている限り、私は批判されても一向に気にならなかった。というのも、長らく男性の仕事とされた批評という仕事を続けるにつれて、私は熟練の戦士[6]にならざるをえなかったのである。この点に関して、私はアイルランド人としての民族的才能に恵まれており、細身の剣も棍棒も、どちらもなかなか見事に使いこなすことができた。時には男性の強敵から、「あの女とやり合うんじゃなかった」という後悔の言葉を引き出したほどである。女性の哲学者が最初にやらなければならないことの一つは、もしその女性にバークリーやベルクソンのような能力があるならば、効果的に反論する技術を身につけることである。しかし、格闘技と同様に知的論争にも、クイーンズベリー・ルールのように正々堂々と闘うための規則があってしかるべきだ。すなわち、敵について嘘を言わないこと、ベルトから下は殴らないこと、ひとりの人間に対し、集団で集中攻撃しないこと、相手の私生活に言及して議論と関係のない話を持ち出さないことである。(497頁) 彼女が女性であったがために受けた差別(というより、彼女の才能に嫉妬した男性たちからの不当な誹謗中傷)は本書でも書かれていますが、あくまでいくつかの例、という感じですから、実際にはもっと大変な苦労があったのでしょう[7]。ただし、上の引用での「アイルランド人としての民族的才能」という箇所には、前回の本エッセイで見た、友人のために孤軍奮闘するイェイツの姿が念頭にあったでしょうし、「知的論争にも[中略]正々堂々と戦うための規則があってしかるべきだ」という記述には、幼い頃から公正さを重んじるコラムの性格を感じることができます。この後、彼女はグッゲンハイム財団の特別研究員として採用されることになり、夫と共にパリに住み(1930~32年)、単著『伝統と始祖』の執筆に注力することになります。そして、このパリ時代に再会を果たしたのが、ジョイスでした。 [6] この「戦士(fighter)」という点は「あとがき」でも触れられていますが、その意義は先述の読書会での三神先生のご発表から改めて教えられるところが多かったです。[7] 加えて、ヴァージニア・ウルフの〈陰口〉に対するコラムの反論は大変面白いです(こちらについても三神先生が「あとがき」で丁寧に論じてくださっています)。 ジョイスとコラムの共通点と相違点 先に述べたように、ジョイス(1882-1941)とコラム(1884-1957)にはエグザイル(exile)という共通点が挙げられます。「亡命」「流浪」「追放」の訳語が当てられますが、政治権力から強いられたわけではなく、自ら祖国を出るという点でしばしば研究史上では「自発的亡命」という言葉も使われます。厳密にはダブリン郊外、ラスガーの生まれですが、都会育ちのジョイスと田舎生まれ&田舎育ちのメアリーの対比も興味深いです。ただ、ジョイスは『ユリシーズ』の末尾に、「トリエステ―チューリッヒ―パリ」と書いたように、亡命先はヨーロッパ大陸が中心で(他にもロンドンにはしばしば訪れていました)、コラムの場合はこれまで見てきたようにニューヨークやシカゴ、さらにはアメリカ大陸を横断してサンフランシスコからハワイ諸島にまで訪れていますから、越境性という点では彼女の方に軍配が上がりそうです。 しばしば引用されるようにジョイスにとっての「流浪」は、芸術家としての自己を打ち立てるために必要なものでした。『若き日の芸術家の肖像』第5章には次のようなマニフェストが書かれています。 ――いいかい、クランリー、と[スティーヴン]は言った。きみはぼくのやりたいこと、やりたくないことを質問した。では、ぼくが何をやりたいか、何をやりたくないか、返事しよう。ぼくは自分が信じていないものに仕えたくない[8]。たとえばそれが僕の家庭だろうと、祖国だろうと、教会だろうとね。ぼくがやりたいのは自分自身を表現すること、生活または芸術の何かの様式を通して可能な限り自由に、可能な限り完全に表現したいんだ。そして自分を守るためにぼくがあえて使用する唯一の武器、それは沈黙と、流浪と、そして狡知。(大澤正佳訳、岩波文庫、2007年、464頁) イェイツにとって己の身を守るための「仮面」が必要であったように(そしてしばしば論じられるように仮面はオスカー・ワイルドの鍵語でもあり、三島由紀夫の『仮面の告白』へとテーマ的に繋がります)、ジョイスにとっては“silence, exile and cunning”の3つが武器でした。 コラムも『人生と夢と』で「エグザイル」という単語を何度か使っていますが、下記は彼女のナショナル・アイデンティティと密接に関わる部分でありましょう。第29章からの引用です。 ただ、ヴァン・ルーンがまるで自分が典型的なアメリカ人であるかのように、「僕たちが」とか「僕たちの」と言うのを聞いて、私は少々驚いた。私の目から見れば、アメリカにおける国家への帰属意識は、アメリカに生まれた者たち、ヴァン・ウィックの言う「先祖代々のアメリカ人」だけに許された特権だと思われたからである。私自身、外国で「私たちが」とか「私たちの」と言うときもあるし、実際私は人生の大半をアメリカで暮らしてきたわけだが、それでも特別な時を除けば、「私たちは」とか「私たちの」という表現は極力控えるよう努力している。それはたぶん、私自身、自分が生まれた国だけでなく、どこにいるときでも、常に自分が亡命者[翻訳ではエグザイルとルビを振りました]であると感じているからなのだろう(I feel an exile always, everywhere, including the land in which I was born)。(460) ポストコロニアリズム批評の始祖とも言える、パレスチナ系アメリカ人(エルサレム生まれ)のエドワード・サイード(1935-2003)は、『知識人とは何か』の中で以下のような有名な知識人の定義を書き記しています――「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり[9]、またアマチュアであり[10]、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」(20頁)[11]。ここで言う「亡命者」は実際に祖国を去っているかどうかという物理的な移動の問題ではもちろんありません。サイードは本書で『肖像』や『ユリシーズ』のスティーヴンについても言及する中で、「知識人は家庭になじまないばかりか、月並みな日常にもなじまない」、「彼の信条の中で、もっとも強烈なのは、知的自由をまもりぬこうとするする姿勢だろう」(46-47頁)と述べています。ですから、仮に故郷にいたとしてもその場所、その時代の〈常識〉、つまりマジョリティの支配的な考え方(広義における、イデオロギー)を受け入れることができない者は、比喩的に己をエグザイルと呼んでいいのでしょう(コラムが寄宿学校に留まることができなかったのも、カトリックの狭い世界からより広い世界へ、言い換えれば、「知的自由」を渇望したからに他なりません)。加えて言えば、上で引用したコラムのエグザイル観には、安易に「私たち」という言葉を使うことの危険性へ警鐘を鳴らしているという点で非常に今日的です。サイードもweとtheyの二項対立が常に既に内包している危険性をたびたび指摘していますし、排外主義が吹き荒れる2025年の現在において、〈包摂〉がたいていの場合は、多様性を尊重するための重要なリベラル的態度でありながらも、時として構造的な〈排除〉を生んでしまうというジレンマは、やはり繰り返し噛み締めるべきでしょう。 [8] ここでは“I will not serve”と述べていますが、スティーヴンの教会との決別を示す「我仕えず(non serviam)」という言葉(神に反逆するルシファーの台詞)を彼が最初に耳にしたのは、『肖像』第3章のアーノル神父の地獄の説教においてでした。「エピファニー」と同様に宗教用語を己の美学論に我有化(アプロプリエーション)するジョイスについては、下記の拙論で書きましたので、ご覧いただけたら幸いです――「〈我仕えず〉、ゆえに我あり――間違いだらけの説教と狡猾なスティーヴン/ジョイスの戦略」金井嘉彦・道木一弘編著『ジョイスの迷宮──『若き日の芸術家の肖像』に嵌る方法』、言叢社、2016年、99-118頁。ジョイス独自の先行文学テクストに対する「アプロプリエーション」の方法については、金井嘉彦先生の『ガラス越しに見るジョイス』(言叢社、2022年)、特に第5章と第6章をご参照ください。[9] この周辺性については、つい先日、佐藤亨先生の『アイルランドから東北へ――周縁と漂着の詩学』(新評論、2025年)を図書新聞で書評させていただいたときにも痛感したことでした。下記からお読みいただけますが、私の拙文はどうでもいいので(?)、ぜひ佐藤先生のご著書をお手に取っていただけたら幸いです。 https://toshoshimbun.com/news_detail?article=1757482108919x348692304037412860[10] 「アマチュア」という部分についても補足をしておきます。J・F・リオタールのポストモダニズム論への反論という思想史的な意味もあるのですが、簡単に言ってしまえば、自らの専門性を隠れ蓑にせず、「アマチュア」としてであっても社会的問題への発言(サルトル的に言えば「アンガジュマン」ですね)を続けるべきである、という意味です。[11] 大橋洋一訳、平凡社ライブラリー、1998年。 エルマンが描くジョイスとコラムが描くジョイス ところで、ジョイス研究の大家、リチャード・エルマン(1918-1987)の『ジェイムズ・ジョイス伝』[12]は、伝記文学の白眉としばしば称されますが、エルマンはパリ時代のジョイスを描く際に『人生と夢と』からも繰り返し引用しています。 1922年、『ユリシーズ』発売直後のエピソードをエルマンは以下のように語ります。 シェイクスピア・アンド・カンパニー書店から数ブロック離れたフラリュ通りに住むガートルード・スタインは実験的文学の第一人者としての地位が脅かされ、不快に思っていた。「ジョイスは立派です。立派な作家です。彼は不可解で、それでいてだれでも彼のことが分かり、だからみなに好かれるのです。しかしガートルード・スタインとジョイスとどちらが先でしたか? 私の最初の大著『三人の人生』が一九〇八年に公刊されたということを忘れないでください。『ユリシーズ』のずっと以前のことです。もっともジョイスは何かを成し遂げました。けれども彼の影響は局部的です(His influence, however, is local)。もう一人のアイルランド人作家シングと同じように、彼も彼なりのいい時代を持ったのです。」ジョイスが自分に会う機会を利用しないこともスタインは面白くなかった。しかしジョイスは、のちにメアリ・コラムにはっきりと言ったが、「知的な女性が嫌い」だった(But, as he pointedly told Mary Colum later, ‘I hate intellectual women’)。しかし彼はガートルード・スタインの被保護者のアーネスト・ヘミングウェイとは親しくつき合った。(653頁) この「知的な女性が嫌い」という表現は、ジョイスのミソジニーを示す言葉として批評史の中で独り歩きしている観があります。もちろん時代的限界としてジョイスの女性表象に問題がないわけではありません(とりわけルッキズムの観点から)。しかし、エルマンが描くジョイスは、傲慢な孤高の天才作家として英雄的に描かれ過ぎている、というのはしばしば指摘されることで、コラムの記述を読むとむしろ印象に残るのは、ジョイスが家族だけでなく友人に対しても非常に思い遣りがある人物であった、ということです。前回の連載で、本書の精読を通じて私の中でのイェイツの印象がかなり好意的なものに変わったということを書きましたが、ジョイスについてもそれは当て嵌まる気がいたします。 上で引用したエルマンの表現は、『人生と夢と』第33章の下記のエピソードに由来します。まずはエルマンの記述を見てみましょう。 その頃[1932年]のジョイスの訪問客にパードリック、メアリ・コラム夫妻がいた。彼は以前よりも二人に親近感を感じていた。もっともメアリ・コラムにはときどき悩まされた。ある日の午後、言語理論の実験者ペール・マルセル・ジュスの講演を一緒に聞きに行ったが、そのあとたまたま若いアメリカ人を相手に内的独白の技法とその出所であるデュジャルダンの『月桂樹は伐られた』について一くさりしゃべった。青年が立ち去るのを待っていた彼女は、持ち前の押しつけるような言い方で、「まだ十分楽しんでいないとおっしゃるんですか? もう世間を十分からかったんじゃないんですか? フロイトやユングの影響を受けていることをなぜ否定なさるの? このような大元祖の恩恵を受けている方がいいんじゃないですか? あんな……」と言った。長年、こんなふうにジョイスに口を利く者はいなかったし、彼はこういうのは好きでなかった。唇を固く結び、むっとした顔で、椅子の上で体を揺らし、「何でも分かっている女なんて嫌いだね」と言った。しかしメアリ・コラムは参りもせず、「それは違うわ、ジョイス。好きなはずよ。機会があったらこの点について何かに反論を書くわ」と答えた。ジョイスはしばらく黙ってたばこを吹かしていたが、急に腹立たしさを忘れたように半分笑顔を見せた。コラム夫人はようやく説得できたと思った。しかし、数日後、彼が読んで聞かせた女友達についての詩は、それを裏付けるようなものではなかった。(776-77頁) 「何でも分かっている女」という部分が、最初に本稿で引用したエルマンの表現に繋がっているわけですが、コラムの方を読むと事情が少し異なることが分かります。 そこでその[アメリカから来た、大学講師と思しき]若者が去ったあとで、私はジョイスに言ってみた。「こんなふうにして人を騙して、そんなに楽しいんですか? 一体どうしてフロイトやユングからの影響をお認めにならないの? あのような偉大な二人からの影響を認めない代わりに、あなたはあんな……」彼はそこで私を制した。怒りで、彼はだんだん気色ばんだ表情を見せた。椅子に座った彼は苛立たしげに体を動かし、「知ったかぶりの女は気に入らないな(I hate women who know anything)」と言った。「いいえ、ジョイスさん、あなたはそんな人じゃないわ」と私は言い返した。「知的な女性はお好きでしょ(You like them)。もし機会があったら私はあなたの嘘を、文章で発表するつもりですから」と続けた。しばし彼は、怒りの表情を見せたまま沈黙していたが、やがて悪戯っぽく微笑んだ。結局、その日の午後は楽しい時間を過ごすことができた。その後彼が、デュジャルダンについての逸話を公に語ることはなかったと思う。(524-25頁) “You like them”という部分を「知的な女性」と意訳したのは、私なりにエルマンの「知的な女性が嫌い」という表現を意識した上でのことです(やや出しゃばった意訳、と言わざる得ないとは思います)。エルマンの記述だけを読むと、知的な女性全般が好きではなかったというように受け取られかねないと思うのですが、ジョイスには人をからかったり、騙したりする悪癖は確かにあったものの、少なくともここでのやり取りにおいては、精神分析からの影響という核心をメアリーから突かれてしまったことに対する悔し紛れの発言だったのではないでしょうか(まさにこれこそがフロイト的「否定」なわけですが)。しかも口論の最中に思わずカッとなって出てしまった発言(それ故、本音だったということもあるとしても)であることも考慮する必要があるように思います。あるいは、実際ジョイスはデュジャルダンに強い敬意を抱いていたのかもしれません(それに対しコラムは、「あなたはあんな……」と言い掛けており、この老作家への評価は推して知るべし、というところです)。 つまり、エルマン、およびこの大著をわずか1年で翻訳した宮田恭子先生への最大限の敬意は払いつつ[13]、彼の伝記はジョイス=(知的な)女嫌い、というステレオタイプを強化してしまったのではないかという気がいたします。1931年に父が亡くなり[14]、1932年の夏にはルチアが統合失調症のため入院するなど、ジョイスにとって精神的に大変辛い時期だった、ということもあるでしょうが、『人生と夢と』を読む限りでは、コラム夫妻への彼の確かな友情と信頼が伝わってきます[15]。 もちろんコラムのジョイス評がすべて正しいというわけではありません。同じ大学(現在のUCD=University College Dublin)で学んだことの意義を論じている以下の文章を見てみましょう。 大学で学んだことは、結局のところ、私たちが修道院の高校で学んだことの延長でしかなかったが、高校では、年代を追って過去から現代へ向かうのではなく、現代から過去へ遡るという方法を取っていた。高校での勉強は、私たちが学んでいた言語について十九世紀まで遡ることができたが、大学では、言語と文学の始まりから始め、徐々にその発展に沿って世紀を下ってくるのだった。私たちは、言語学と古い文献を与えられた。それは、興味深いとは言いがたい代物だった。私は、試験に合格するための最低限の事柄のみに集中した。しかし、私が全く魅力を感じなかった勉強も、おもしろいと感じた人々もいたようである。例えば、ジェイムズ・ジョイスなどがその例で、私が最初にダブリンに着いた頃は、まだ彼もダブリンに住んでいたが、彼は、私と全く同じ課程で学び、私と全く同じ現代語と文学で学位を取得している。言語がいかに発展したかというテーマは、彼の知性の深く重要な部分を刺激したに違いない。なぜなら、彼の作品はすべて、大学での生活と大学で学んだことにその起源を見出すことができるからである。彼は、そのような教育システムの、文学というジャンルにおける最も傑出した広告塔であると言えるかもしれない。それから、私たちは、古代から現代に至るまでの文学史について多くを学んだ。現代文学は、それぞれの国語で書かれた原書で学んだ。教師の中には、文学そのものより、文学史のほうがより重要だと本気で考えている人もいた。しかし、その当時のダブリンにおいて、これはほとんど意味のないことだった。なぜなら、生きた人間が推進する活発な文芸運動が私たちの周りで進行しており、詩や演劇について、クラブや社交の場といった町の至る所での活発な議論が展開されていたからだ。おまけに、運動の推進者の中には、世界的名声を得ていた者も複数いたのだった。(130-31) これは第8章で彼女自身が大学に入ったときの記述ですが、第33章では以下のようにも述べています。 一方、私の夫のような古くからのダブリンの友人たちに対して、ジョイスは何らかの「照応関係」を求める必要はなかったことに私は気がついた。私との関係では、「照応関係」などというのは表面的なことにすぎず、私たちが実際に同じような教育を受け、同じような外国語を学び、それらの文法事項や教科書を勉強し、そして近代語や文学で学位を取ったということの方が重要だった。ジョイスも私も優秀な成績を取ることには関心はなかったが、確かに、広範囲にわたる同時代の文学運動には大いに関心を持っていた。[中略]しかし、ジョイスと私は同じような教育を受けたものの、それぞれが教育から受けた影響は全く異なっていたため、二人の間の「照応関係」などというものは、痕跡すらたどれないようなものだったのである。少なくとも私は諸言語の起源や言語学の発展、古い時代の各言語の文法などにはほとんど関心を持てなかったのに対し、それらはまさにジョイスの関心事に他ならなかった。彼は、古英語に始まり、ダンテ以前のイタリア語、ルター以前のドイツ語、最古のフランス語文書と称される「ストラスブールの誓約書」に至るまで、実に多くの文章から数パラグラフ、時には数ページも暗記していた。彼が主催したパーティーで、彼が唄を歌う気分でないときは、文法の授業で暗唱した韻文をどちらが多く覚えているか競争しようと持ちかけてきたこともあった。[中略]私がここで強調したいのは、アメリカでは印刷物でもラジオでも、ジョイスが聖職者になるための教育を受けたとまことしやかに語られるのだが、実際にはそのようなことはないのである。彼はアイルランドの中産階級、あるいは知的職業階級の子弟として、あくまで一般的な中等教育と高等教育を受けただけであり、大学への進学は、確か代父の援助によって行われたのだと思う。しばしばジョイスの博識ぶりが強調されることがあるが、それは学校や大学で皆が学んだことを、ジョイスが驚異的な記憶力で、大量かつ正確に覚えているだけのことなのだ。私も多くの学友よりは記憶力がよいという自負はあるが、あらゆる事柄の詳細を極めて正確に、即座に思い出すことのできるジョイスの能力に比べれば、足下にも及ばない。同時に、どうしても考えずにはいられないのは、ジョイスが徹底的に調査し、些細な点にもこだわりすぎたことで、『フィネガンズ・ウェイク』の完成が遅れたのではないかという点である。ジョイスの熱狂的な支持者ですら、やはりあの作品は技巧を凝らし過ぎだと認めるに違いない。(522-23) コラムはジョイスとの「照応関係」≒同じ大学教育を受けたことの意義を強調しつつ、ジョイスの「驚異的な記憶力」を紹介し、「彼の作品はすべて、大学での生活と大学で学んだことにその起源を見出すことができる」、あるいは「学校や大学で皆が学んだことを、ジョイスが驚異的な記憶力で、大量かつ正確に覚えているだけのこと」と主張しています(確かに、現在の私たちが小中高で習ったことを「大量かつ正確に」覚えてられたら、、、と思わずにいられませんよね)。 本連載で繰り返し強調したように、19世紀後半から20世紀初頭は文学の「黄金時代」であり、人文学教育(昨今ほとんど耳にしなくなりましたが、いわゆる教養教育と言い換えられるでしょう)が最も大きな社会的意義を持った時期だったと言えるでしょう。コラム自身、人文知が市井の人々から失われるようになった契機を第一次世界大戦に見ていました。しかし、独学で様々な言語を学び、自ら進んで大量の書物から学んだジョイスからすれば、学校教育の意義を殊更に強調するこのようなコラムの言い方には〈反論〉をしたくなる箇所だったかもしれません。 ただしコラムをあえて擁護するならば、彼女が折に触れて「教育」の意義を強調するのは、アイルランドの教育が英国のみならず、アメリカでも低く見られていたことに対する強い不満があったということが指摘できるでしょう。第25章「アイルランドに帰る」(1923年)には次のような記述があります。 トリニティ・カレッジ教授の若くて少々生意気な妻が、アメリカには教養のある人はいるのかと私に尋ねてきたので、私は「アイルランドについて同じような質問を何度アメリカでされたかわかりません」と答えた。私たち夫妻がアイルランドを去ってからこの会に出席するようになった何人かの若い作家たちは、私を本当に苛立たせた。アイルランドにはそもそも作家の数が少ないが、彼らは多少名が知れるようになると、自分の作品の価値にそぐわないような、過大な自己評価を下すようになる者が多い。その場にいた作家たちは、当然のことながら、アメリカで出版し、そこで読者を得ようと躍起になっていた。そのくせ、彼らがアメリカ文学やアメリカの読者について語るときの口調は、実に尊大だった。自分たちに何か奉仕するために、アメリカ並びにアメリカ人は存在しているのだというヨーロッパ人に特有の態度は、ダブリンでも全くないわけではなかったのである。(376頁)[16] 他国に対する無理解と言ってしまえばそこまでですが、英愛関係においては劣位に置かれていたアイルランドであっても、新興国アメリカに対する偏見はあったし、その逆も然りで、20世紀初頭のアメリカには大国としての優越感が芽生えつつあったということなのでしょう。ついつい英愛関係ばかりが論じられるアイルランド研究において、アメリカでの体験を経て、祖国やヨーロッパを〈再発見〉するコラムの視点から学ぶことは本当に多いです。 コラムの『ユリシーズ』への評価 上で引用したように、『フィネガンズ・ウェイク』にはかなり批判的だったコラムですが、彼女は『ユリシーズ』を最も早く書評した人物の一人であり(そのことは本書409頁で書かれています)、今日の私たちが参照できる大量の先行研究はおろか、ドン・ギフォード他やサム・スロート他の注釈書(前者は約700頁、後者は1000頁を越えます)がなかった時代に、なぜこれほどまで深く且つ正確にその核心に迫れるのか、と驚かざるを得ません(その意味ではやはりコラムさんも本書に登場する他の〈天才〉たちと同程度に類稀なる才能に溢れる人物なのですよね)。 とはいえ、第27章で彼女は次のように『ユリシーズ』の難しさについて率直に述べています。 『ユリシーズ』は読者に何の道標も示していないため、ダブリンの生活や地理に不案内な読者が本当にこの作品を理解できるのかどうか、今日に至るまで私には確信が持てない。ジョイス自身、そのような読者は作品から多くのことを得るだろうが、理解することはできないだろうと思っていた。『ユリシーズ』は世界で最も地方色の強い(the most local)本の一つである。ジョイスと同時代を生きたダブリンの人々にとっては馴染み深い、特定の場所と時事的な出来事に対する言及で溢れ、現地の人でなければわからない、特定のジョークで『ユリシーズ』は埋め尽くされている。(409頁) なるほど、この引用に続いて彼女は、「イギリスの批評家の多くは、また、アメリカの批評家の一部は、この作品が一体何について書かれた本なのか全く理解できなかった」と言っていますから、〈外国人〉である私たちが『ユリシーズ』が理解できないのは当たり前なのだと、とりあえずは開き直っていいのでしょう。 さらに興味深いのは第33章でジョイスの作品を表する際に、“local”という表現を再び用いていることです。 『ユリシーズ』と『フィネガンズ・ウェイク』はある一つの都市の叙事詩であり、その都市の歴史であり、そしてその都市の記憶なのだ。ダブリンに住む者であれば当たり前に理解できる言葉、実際に話されていた言葉ですべてが書かれている。多くの都市が川のそばで発展してきたように、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は川の歴史であり、都市文明の歴史である。そこに住む者たちは、歴代の王から洗濯女たちに至るまであらゆる人々が、ジョイスの想像力によって喚起され、その街の通りや周辺の地区を自由に歩き回る。この二つの偉大な小説は、あらゆる文学の中で最も特定の土地に根ざした作品である(the most local)と言っていいだろう。ダブリンの街並みや通りのことをよく知らない読者が大勢いるという可能性を、ジョイスが少しでも気にかけたかという点について、私は疑わざるを得ない。(508頁) デイヴィッド・ダムロッシュ(1953-)は『世界文学とは何か?』の序章で以下のように述べています――「どんな観察者にも言えることだが、たとえその視線が真にグローバルなものであったとしても、どこかからの[翻訳では傍点で強調]の視線であることに変わりはない。そして、世界文学が流通するときに見られるグローバルなパターンは、ローカルな表れ方のなかで形づくられる」(51頁)[17]。加えて、「世界文学の作品は、[翻訳と流通を通じて]世界中へ移動してゆくときに新しい生を授けられる」とその越境性も指摘しています(46頁)。あえて作者の問題に触れず、作品の受容論に絞った点にダムロッシュの議論の先見性と卓越性があるわけですが(とはいえやはり「翻訳」≒英訳の問題については、非英語圏出身の筆者には受け入れがたいと感じられる主張も散見されますが)、ここであえて議論を後退させるならば、やはり1つの文学作品が一種の世界性を獲得しうるのは、その作者が複数の文化圏を経験しているという越境性(あるいは、サイードが言うところの亡命者性)故でもあることでしょう[18]。 前掲書でもジョイスを度々参照しているダムロッシュが念頭にあったかどうかは不明ですが、このようなローカルとグローバル、あるいは地方と世界の逆説的関係については、ジョイスが年少の作家、アーサー・パワー(1891-1984)への以下のような忠告の中で指摘しています(ここでイェイツとメアリーの関係を想起してもいいかもしれません)。 「彼ら[大作家たち]も最初は国民的(national)な作家でした」とジョイスは述べた。「そしてそのナショナリズム(nationalism)の強さ故に、彼らは遂に国際的な(international)存在になったのです。ツルゲーネフの場合がそうですね。彼の『猟人日記』を思い出してみてください、とても地方色の強い(local)ものです。しかしそこを起源として、彼は偉大な国際的な作家になったのです。私に関して言えば、いつだってダブリンのことを書いてきました。なぜなら、ダブリンの核心に到達することができれば、世界中のすべての都市の核心に到達できるわけですからね。個別の中にこそ、普遍が宿るのですよ。」(拙訳)[19] In the particular is contained the universal――コラムが『ユリシーズ』にローカル性を見て取るとき、私たちは改めて、文化も違えば言葉も違う、遠い異国の、しかも昔に書かれた物語が、この私に何かを訴えかけるのはなぜなのか、そして、その感動を誰かと分かち合うことがなぜできるのか、という一種の奇跡に思い至るのではないでしょうか。 1922年7月19日号の『フリーマン』で(ということはまだ『ユリシーズ』の出版から半年経たずの内に!)コラムが書いた「ジェイムズ・ジョイスの告白」の一部を訳してみたいと思います[20]。 しかし行く手を阻むその難解さは相当なものである。『ユリシーズ』はこれまで書かれたものの中でも最も民族的(the most racial)な本の一つであり、最もカトリック的(the most Catholic)な本の一つでもあるのだ(事実、驚くべきことでは全くないが、アイルランド政府の役人や教会職員は、この本の刊行を禁じた)。アイルランドのナショナリズムに見られるヒロイズムや悲劇、その愚鈍さや怒りといった、これまで半ば隠されてきた伝統の中で育ったことのない者には本書を十全に理解できるとは思えないし、ローマ・カトリック教会の哲学や歴史、礼拝規則に不案内な者や、ダブリンの街を知らず、一目でそれとわかるようなダブリナーズの知り合いが一人もいない者にとっても、事情は同じであろう。尤も、作者自身にとっては造作もなく理解できることばかりが書かれているのではあるが。(232) “local”という言葉こそ使われていませんが、「最も民族的」かつ「最もカトリック的」[21]という表現には、独立闘争や文芸復興期から連綿と続くアイルランドのナショナリズムの文脈、さらには「ダブリンの街を知らず」「知り合いが一人もいない者」には「十全な理解」はできない、という点からそのローカル性ゆえの難解さの問題が明確に指摘されています[22]。 [12] 宮田恭子訳、みすず書房、1996年。[13] ある年の日本ジェイムズ・ジョイス協会の懇親会で伺ったお話ですが、エルマンの翻訳に取り組んでいた当時、先生は洗濯や料理の合間のわずかな時間でも彼の英文と格闘していたそうです。すごすぎ。[14] 尤もジョイスの父についてのコラムの〈毒舌〉はここでも痛快(爽快?)なほど冴えています――「数カ月前に父親を亡くしていたジョイスは孤独だった。それもあってルチアに関する一連の出来事は、悲劇以外の何ものでもなかった。『肖像』や『ユリシーズ』で描かれるあのどうしようもない父親、サイモン・デダラスのことを考えると私にはいささか奇妙に思えるのではあるが、ジョイスは父親に対して強い愛情を抱き、父に多くを負っていると考えていた」(528頁)。[15] このエピソードの結論部分で、コラム自身は「その後彼が、デュジャルダンについての逸話を公に語ることはなかったと思う」(525頁)と武勇伝的な自負を滲ませていますが、エルマンが言う通り、やはりここでは「コラム夫人はようやく説得できたと思った。しかし、数日後、彼が読んで聞かせた女友達についての詩は、それを裏付けるようなものではなかった」というのが〈真実〉であったような気は致します。[16] 第20章末の会話も単なる笑い話、という以上に、アイルランド出身でしかも女性であるがゆえに、不当に軽視されたことに対するコラムの憤りを感じ取ることができます。正直私自身、最初のうちにはその皮肉を充分に読み取ることができていなかったと告白せざるを得ません。[17] 秋草俊一郎・奥彩子・桐山大介・小松真帆・平塚隼介・山辺弦訳、国書刊行会、2011年。[18] ダムロッシュの言う、世界文学であるか否かの判断基準としての「三概念」、「確立された集合体としての「古典」、進化する正典としての「傑作」、多角的な「世界の窓」」(32頁)の3番目に作者が複数の文化を体験しているかどうか、という論点を結び付けることは可能でしょう。[19] Ellmann, Richard. James Joyce, new and rev. ed, Oxford UP, 1982, p. 505.[20] Colum, Mary. “The Confessions of James Joyce.” James Joyce: The Critical Heritage, vol. 1, edited by Robert H. Deming, Routledge, 1970, pp. 231-34.[21] 考えてみればcatholicという単語は、そもそも「普遍的な」「万人に渡る」という意味なわけですが、本書にはカトリックについて下記のような、思わずくすっと笑ってしまうような描写もあります――「ボードレールに関するマリタンの見解をジェイムズ・ジョイスに伝えると、彼は皮肉たっぷりに、カトリック的な精神構造を持つ者たちを片っ端から物笑いの種にした。しかし実際には、ジョイスほどその精神構造がカトリック的である人物に私は現在に至るまで出会ったことがない」(507頁)。[22] 本連載の執筆でもたびたびお世話になったmarycolum.comの管理人、デニス・A・アーヨ氏は以下のように指摘しています――コラムは当時のモダニズム文学やコスモポリタニズム全盛の中で、「今日主流となっているポスト・コロニアル的なジョイス読解を多くの点で予見させる読み方」を行っている。https://marycolum.com/articles/confessions-of-james-joyce/ ジョイスの〈声〉 ところで、『ダブリナーズ』(1914)[23]から『肖像』(1916)、そして『ユリシーズ』(1922)、『フィネガンズ・ウェイク』(1939)に至るまでジョイスの文学を貫くのは、ダブリンの人々の〈声〉を作品の中で再現するという「代理」「表象」「表現」「再現」「再現前化」すなわち、representationの問題があるように思えます。短篇集の中で特に彼のお気に入りだった「蔦の日の委員会室」について、批評家ウィリアム・ヨーク・ティンダルは以下のように述べています。 なぜこれら15篇の短編の中で、本作[「蔦の日の委員会室」]がジョイスのお気に入りだったのかを理解するのは難しくない。この作品にはダブリン全体が描かれているから、なのだ。『ユリシーズ』の「サイクロプス」挿話[第12挿話]を除けば、本作ほど彼自身のダブリンに対する愛憎の的確な形式をジョイスは見出し得なかっただろうし、本作ほどこれぞダブリンというべき人々の会話の語り口を見事に再現しているものはない。明らかにジョイスがつけていたノート、もしくは彼の驚異的な記憶力によって生み出された、ダブリナーズ達の間での言葉のやり取りは、彼らを全体として再現し、個々人ではなくむしろ類型化された人物として描き出し、ダブリンの要約とも言える「彷徨える岩々」挿話[第10挿話]の到来をも予見させる。そして、ジョイスにとってダブリンとは、どこでもある場所の小宇宙であり、その縮図でもあるのだ。(33)[24] 先に見たジョイスの「驚異的な記憶力」が思い出されますが、この最後の一文は先に見た「普遍」と「個別」の関係を念頭に置いて書かれているようにも思えます。 本書でもコラムは、ジョイスが〈声〉にこだわった作家であることを強調しています。 ダブリンから訪ねて来る者がいれば、ジョイスは喜んで彼らをレストランでの夕飯に招待した。そのダブリナーが自身の作品を理解し、評価してくれるとき――とりわけ、文学畑でない人物の場合――ジョイスは大変喜んだ。私たち夫婦がモンマルトルのカフェに座っていると、ダブリン出身の男性が夫に気づき、話しかけてきたことがあった。[中略]その男性は、多くの市井のダブリナーたちと同様に、『ユリシーズ』に夢中になっていたが、文学的な教養を一切ひけらかすことのない人物だった。すぐに私たちは、この男性をジョイスは気に入るだろうと考え、電話をかけて彼を家に連れて行ってよいか尋ねた。日曜日で、家族の者達はどこかに外出しており、ジョイスはひとりアパルトマンにいた。彼はすっかり興奮して、「すぐにその人を連れて来て欲しい」と言ってきたので、ダブリンから来たその男性は少しばかり躊躇いはしたものの、喜んでその申し出を受け入れた。ジョイスの興味を特に引いたのは、この客はダブリンの、古くからあるガラス職人の一家、ピュー家の出身だったことで、奇しくもジョイスは『フィネガンズ・ウェイク』の中で一家にゆかりの品を描いていた――注意深い読者であればその存在に気づくであろう。彼は客人に『ユリシーズ』を手渡し、労働者階級が住むダブリンの一角、クーム地区のアクセントで、一つの章を朗読して欲しいと頼んだ。その朗読はジョイスを魅了した。この人物がこれまで何度も『ユリシーズ』を声に出して読んでいたことは一目瞭然で、特にこの挿話を味わうために必要な労働者階級のアクセントを、彼は完璧に再現することができたのである。ジョイスは明らかに大喜びしていたが、それは、目の前で、特に文学的素養があるわけではない一般の読者が、『ユリシーズ』を一種の国民文学の傑作として受け止めていることを実感できたからである。(513-14頁) ジョイスは果たしてどの挿話を朗読してほしいと頼んだのか――『人生と夢との』の註に記すべきかどうか迷いましたが結局は載せませんでした。しかし『ユリシーズ』をお読みになったことがある方であれば「労働者階級」の「アクセント」という部分でピンと来たかもしれません。 夫との共著『私たちの友人、ジェイムズ・ジョイス』では以下のような記述があります。 少し話をした後、ジョイスはそのダブリン出身の男性に『ユリシーズ』を手渡した。酒場のエピソードを選ぶと、ピュー氏は粗野なアクセントで読み始めた。その挿話の語り手である、不良債権の返済を求めて奔走する借金取りの言葉(the very speech)が、パリのアパルトマンで見事に再現された。ジョイスはソファーに座り、微笑んでいた。〈異国〉のダブリンの男連中の声が聞こえてきた――「おお!あー、まったく喋ってる場合じゃないぜ。この1パイントをどんなに待ち焦がれたか。神に誓って言うが、俺の胃の底できゅーっと音がするのが聞こえるぜ。」[(U 12.242-43)]私がその朗読に心から笑うと、ジョイスは即座に言った――「私ならもっと粗野なアクセントで読むけどね」(169)[25] 無駄に何を張り合ってるんだか…と、ジョイスさんにツッコミを入れたくなる箇所ですが、そう、第12挿話の語り手である「おれ」の声がパリのアパルトマンで響いた、というエピソードは、やはりジョイスとダブリンの捻じれた関係を想起させます。 本稿が先に『肖像』から引用したように、故郷に留まっていたら自分は芸術家になれない、という強烈な想いを抱きつつ、しかしジョイスは生涯ダブリナーズの一市民としてその街を、人々を、その〈声〉を愛していました。私自身、大学2年生でジョイスの『ユリシーズ』の授業を受けたとき、何よりも惹き付けられたのは彼の狂気とも言える、愛憎相半ばするダブリンへの想いでした。22歳でのちに妻となるノーラと駆け落ち同然で、祖国を捨て、流浪の民となったジョイスは、その後3度しかダブリンに戻りませんでした。しかしご承知の通り、彼の作品の舞台はすべてダブリンに設定されています。もう一人のエグザイルであったコラムが、『ユリシーズ』を「最もローカル」と称するとき、彼女自身がどのような郷愁の念に駆られつつこの小説を読んでいたのか、想像を巡らせてみることもできるでしょう[26]。 おわりに 全4回の連載にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。特にベレ出版の編集者、三島航さんには無駄に(?)長い原稿をNoteに落とし込む作業をしてくださり、本当にお世話になりました(何より、毎回締め切りぎりぎりで本当にごめんなさい…としか言いようがないです)。月並みな感想ですが、私自身、翻訳という究極の精読を通じて何度も読んだこの『人生と夢と』を、このような形で紹介するに当たり、改めて新たに気づかされる点が非常に多かったですし、まだ私には感得できていない本書の魅力があると痛感しています。同時に、まだまだ本書については書かなければならない、書いておきたい事柄が多々あるのですが、とりあえず今回は一旦ここまで、ということにしたいと思います。 最後にジョイス自身の歌う〈声〉、その美声を紹介して、本連載を締めくくりたいと思います。第33章のラスト、娘ルチアの統合失調症が悪化したため、サナトリウムに入院した後のことです。 何かつらいことがあると、ジョイスは歌うことに慰めを見出した。彼の歌はどれももの悲しいものだった。[中略]このときのジョイスは、我が家に来るなりピアノの前に座り、まるで彼がこの部屋にひとりきりで、彼の歌を聴いている者は一人もいないかのように、歌い始めるのだった。[中略]感情の表現ということに関して言えば、私はジョイス以上に優れた歌い手を知らない。多くの芸術に精通し、そこで描かれる人間模様を知り尽くした彼から発せられるその声は本当に印象的で、私がそれまで耳にしたグランドオペラのどのテナー歌手よりも見事だった。彼は様々な言語で歌ったが、その多くはラブ・ソングだった。日頃から彼がロマンティックな恋愛に関わる感情について辛辣な意見を持っていたことを考えると、それは奇妙なことのように思われた。「人々が愛などと呼ぶものは、所詮若さ故の本能の誘惑に過ぎない」と彼はいつも喧嘩腰に語っていたからだ。 それから彼は、イェイツの詩に自分で節をつけて歌った。 ファーガスと共に駆り行くのは誰か? 幾重にも重なる暗い森の影を抜けて …… これ以上顔を背け、苦い愛の謎について思い悩むな ファーガスならば、真鍮の車を操り、 森の影を全て己のものとし、 ほの暗い海に立つ白波も、 散り散りに彷徨う星々も、全て支配する。それは、強い感情が込められた声だった。そこには、ジョイスが送ることのなかった人生、本に書き記すことのなかった人生への渇望が、重層的な音となって響き合っていた。これを聞けば、彼の広大な精神の一部は、音楽でしか表現され得ないこと、作家ではなく音楽家になっていたならば表現し得た領域があるということに気づくはずだ。そしてジョイスはピアノから離れると、娘について話すのだった。今や、彼女の将来のことが、一瞬でもジョイスの心から離れることはなかった。(529-30頁) 『ユリシーズ』第1挿話と第15挿話に登場するイェイツのこの詩は、スティーヴンの死んだ母を巡る、まさに「苦い愛の謎(Love’s bitter mystery)」を喚起させる重要なモチーフになっています。父親を失ったばかりのジョイスが、ここでは父親として娘のことを考えながら、かつて息子として今わの際の母へ歌ったことを思い出しながら歌う「ファーガスと共に行くのは誰か」――「ジョイスが送ることのなかった人生、本に書き記すことのなかった人生への渇望が、重層的な音となって響き合っていた」という部分が特に秀逸です。自伝とは簡単に言えば彼・彼女の人生で実際に起きたことが書かれているわけですが、作者は過去の回想を通じて〈ありえたはずの自分〉〈ありえたはずの人生〉〈ありえたはずの作品〉と向き合うという作業をも同時に行っているはずです。 コラムが回想する「人生」が実際に起きた過去の出来事、アリストテレス的に言えば、一種の現実態であるとすれば、「夢」はあり得たはずの、そうであって欲しいと思いながらも叶わなかった人生をも含む、複数の可能態を指し示すのかもしれません。こうなってもよかったはずなのに、そうならなかったこと、こうなってほしかったのに、そうならなかったこと、もっと一緒にいたかったのに、別れなければならなかった人――『人生と夢と』の冒頭で「私は一生をこの国で送ったかもしれなかった」(24頁)と書くコラムは、ジョイスのこの歌声を聴きながら、どんな人生の潜在的な可能性に想いを馳せていたのだろうかと想像せずにはいられません。 [23] 先述の読書会でも南谷さんからご発言がありましたが、どうしても私たちは20世紀初頭のダブリンのイメージを本作に求めてしまう部分があると思います。「麻痺の中心」としての植民地都市を描く『ダブリナーズ』に対し、『人生と夢と』はそれとは異なる活気に満ちた文芸都市の姿を描いています(もちろん、その記述が文学者たちのサークルのみにフォーカルをしたが故、だとしても)。当時のダブリンを学術的に記述した本としては、例えばリチャード・M・ケインによる『イェイツとジョイスの時代のダブリン』(小田井勝彦訳、小鳥遊書房、2020年)をご参照ください(訳註も大変充実しております)。[24] Tindall, William York. A Reader’s Guide to James Joyce. Thames and Hudson, 1959.[25] Colum, Mary and Padraic. Our Friend James Joyce, Doubleday, 1958. ここでこの発見をしたのは私だけです!と言えればカッコいい(?)のですが、ジョイス批評は膨大ですので、既にいくつもの指摘があります。例えば、ルーク・ギボンズ先生が下記の論文で指摘されています――Gibbons, Luke. ““Old Haunts”: Joyce, the Republic, and Photographic Memory.” Memory Ireland, vol. 4: James Joyce and Cultural Memory, edited by Oona Frawley and Katherine O’Callaghan, Syracuse UP, 2014, pp. 187-204.[26] この点は先述の読書会で平繁佳織さんからご指摘を受けた部分です。 記事を書いた人:小林広直(こばやし ひろなお)東洋学園大学グローバル・コミュニケーション学部准教授。埼玉県富士見市出身。早稲田大学第一文学部を卒業後、同大学院修士課程、University College Dublin修士課程(Anglo-Irish Literature and Drama)、早稲田大学文学研究科博士課程修了。博士(英文学)。早稲田大学文学学術院英文学コース助手、日本学術振興会特別研究員PD、東洋学園大学専任講師を経て、2021年より現職。共著に『ジョイスの罠――『ダブリナーズ』に嵌る方法』、『ジョイスの迷宮――『若き日の芸術家の肖像』に嵌る方法』、『ジョイスの挑戦――『ユリシーズ』に嵌る方法』(以上、言叢社)、『幻想と怪奇の英文学4』(春風社)など。現在、『ダブリナーズ』全15篇を3年かけて読破するオンライン読書会Deep Dubliners(https://www.stephens-workshop.com/deep-dubliners/)を主催している。