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  • 著者のコラム

わが辞書人生[第3回]

著者 大井光隆(元英語辞書編集者)

辞書の書き手に「辞書作りの本当の功労者は辞書編集者である。この人々は知見と経験、情熱と責任感の塊である」とまで言わせる辞書編集者。その辞書編集一筋40年余りの‘職人’が語る、連載の第3回です。

監修者について

今回は辞書の「監修者」のことを書いてみましょう。

編集部のチェックを経た「ゲラ」を総合的に見直し、書き加えたり、削除したりする作業を「監修」といい、それをするのが「監修者」です。

「アンカー英和辞典」の場合は、次の3人の監修者がいました。

柴田徹士先生(大阪大学教授)、小林清一先生(帝塚山学院大学教授)、小西友七先生(神戸市外国語大学教授)の3人です。このうち、柴田先生は「編集主幹」という、責任者の立場でした。

英和辞典

柴田先生のこと

柴田先生は本当に「スゴイ」先生でした。他の二人の先生のチェックを経て回ってきたゲラに徹底的な「赤字」を入れるのです。先生は家庭の事情で大学に行けなかったそうで、当時行われていた「検定」という難しい国家試験にパスして大学教授になられたという、筋金入りの「独学者」です。小林先生も「検定」出身で、柴田先生の推薦で「監修者」の一員となられました。もう一人の小西先生は、すでに知る人ぞ知る「語法」の大家でした。柴田先生が「スゴイ」のは、そんな「大家」が書き込んだ赤字にもバッサバッサと手を入れ、自分のスタイルに書き直してしまうのです。紙の辞書は大量の情報を限られたスペースに収めることを要求されますから、いくら正確であっても冗長な説明は極力避けなければなりません。その点、先生の直しは1点の曇りもない、「明快」そのものでした。「アンカー英和」のキャッチフレーズは、のちに「明快で親切」と決まりましたが、まさにそれが柴田先生のモットーだったのです。ちなみに、小西先生は後年、「ジーニアス」という他社の辞典の編者として有名になられましたが、もともとは「アンカー」の監修者の一人だったのです。ともかく、私は柴田先生のおかげで、「明快な表現」とはどういうものかを教わった気がします。

人脈について

では、どういう経緯で柴田先生が「編集主幹」に引き立てられたかというお話をしましょう。

実は、柴田先生は学習研究社(学研)の創業者である古岡秀人社長と「ご縁」があったのです。会社の大先輩に柴田先生と同じ「検定」出身の人がいて、その人が古岡社長と柴田先生の間を取り持ったということのようです。この辺の事情は、私が入社する前のことですから、多少不正確かもしれません。とにかく、何かの「縁」がない限り、それまで全く英語関係の本格的な辞書を出したことのない、「新興出版社」の辞書の監修を引き受けてくれるような先生はいなかったと思います。「縁」とか「人脈」というものの大切さを痛感します。

ついでに書きますと、歴史と伝統のある辞書出版社(三省堂や研究社など)には、有名な辞書学者の下に多数のお弟子さんがいて、大先生の号令一下、執筆者はすぐに集まるようなのですが、「独学者」である柴田先生にはお弟子さんが少なく、執筆者を集めるという点では他社にない苦労がありました。

なお、柴田先生はベレー帽を愛用され、抜群のセンスとスタミナの持ち主でしたが、「ウェブスター」(Webster)などの大辞典は持ち上げるのも大変で、自分でいちいち引くのはキツイということで、編集部員が交代で先生のお住まいのある兵庫県西宮市のアパートに駐在して、毎日先生宅に伺い、「辞書引き」を手伝っていたという時期もありました。幸い私はその任を免れましたが、任命された人はさぞかし大変だったことと思います。

後記

最終回の次回は辞書の販売について書きます。


記事を書いた人:大井光隆(おおい・みつたか)
1941年、岐阜県本巣市生まれ。
東京外国語大学卒業。
学習研究社にて、一貫して英和辞典、和英辞典、学習参考書などの編集に従事。定年退職後も、各社の英和辞典編集に参画。
著書に、『65歳 イタリア遊学記』(自費出版)、『英語の常識力 チェック&チャレンジ1800問』(べレ出版)がある。

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