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日記を書いて身につける中国語
下出宣子 王凌

写真:日記を書いて身につける中国語

先日ようやく出版にこぎつけた『日記を書いて身につける中国語』の中に、「ネットで商品情報が送られてくると、つい、いろいろ買ってしまう」という一文を日記の例文として書きましたが、近頃の若い世代の人たちは「物」に執着しないと耳にしたことがあります。情報も文学も音楽も映画も、インターネットでいつでも見たり聞いたりできるので、「物」を購入する必要がない。そんな時代だというのに、私はやはり好きな作品を「物」として手に入れて、自分の手元に置いておきたいという欲望からなかなか逃れられません。買いすぎないようにと自分を戒めていても、書店や音楽・映像ソフト店の店頭で見かけて買おうかどうか迷ったすえ買わなかったものが、ネット通販の商品情報で送られてきて、しかも安くなっているのを見るとつい「ワンクリックで購入」してしまうはめになるのがしばしば。
『すべては映画のために!アルノー・デプレシャン発言集』(樋口泰人、月永理絵編集、港の人発行、新宿書房発売、2006年)も最近そうして買ったものの一つです。アルノー・デプレシャンはフランスの映画監督で、1997年に彼の三作目の作品『そして僕は恋をする』(96)を最初に観て以来、ずっと強く心を惹かれるものを感じ、作品が公開される毎に映画館に足を運んできた、私の好きな映画作家の一人です。今年の初春に、一人の知り合いの女性が退職したのですが、とても大きな不幸にみまわれた後に、やっと幸せに恵まれた彼女へのお祝いに、私はデプレシャンの作品『キングス&クイーン』(06)のDVD贈りたいと思いました。そのDVDをネット通販で購入した結果、お薦め商品として『すべては映画のために!』の情報が送られてきたわけです。しかしこの衝動買いは失敗ではありませんでした。公開された時に一度観たきり、あるいはDVDは持っていても買った時に一度しか観ておらず、観っぱなしにしてきた作品をあらためて見直すきっかけになったからです。それにもう一つ、自分がなぜ彼の作品にこんなに惹かれるのか、その理由がわかったからです。
本が届いて封を切って、偶然最初に開いたページから、私の目に飛び込んできたのは「エドワード・ヤン」の名前でした。青山真治監督の『EUREKA ユリイカ』について言及した箇所で、『EUREKA ユリイカ』(00)とエドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の想い出』(00)が、映画学校時代に観たゴダールの『勝手に逃げろ人生』(79)とヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』(87)と同じように「特権的な存在」であると感じたとデプレシャンは語っています。「特権的な存在」であるとは、それらの映画が「それぞれ一つの世界を描いていて、この先の二十年間すべてを描いて」いるということで、『EUREKA…』と『ヤンヤン…』は「今私たちが生きている世界を厳密に描」きながら、かつ、「私たちが生きたいと思う世界、ユートピアをも描いている」(p.62〜63)と。彼が『ヤンヤン…』をこのように理解し、これほど深く共感していることに、私は胸を打たれました。そして今回彼の映画を見直してみて、『キングス&クイーン』も、彼の言い方を借りれば、「特権的な存在」の一つといえるのではないかと感じました。
エドワード・ヤンは、侯孝賢らとともに1980年代の台湾映画ニューウェーブをリードした映画作家ですが、私にとって特別な存在です。(これは私が密かに勝手に思っていることです。)好きな映画ベスト10を挙げろと言われたら、好きな作品は多すぎて、選ぶことは困難ですが、ベスト1なら迷うことなくエドワード・ヤンの『クーリンチエ殺人事件』(91)だと言うことができます。『クーリンチエ…』は、1960年代の台湾で実際に起きた中学の男子生徒が同級の女子生徒を刺殺した事件に取材したフィクションです。ここで詳細に述べることはできませんが、過ぎ去った青春を思い起こすときにイメージとして浮かぶような眩しい夏の陽射しと、複雑で不安定な、圧倒的な暴力に満ちた社会の闇と、しだいに大きくなっていく少年の心の闇を象徴するように画面を支配する夜の暗さが、コントラストをなして、強い印象を残す作品です。エドワード・ヤンの作品は、人と人が理解しあうことはほとんど不可能なのではないか、この世界は本質的に不条理なものではないかという懐疑と、そこから発する失望と孤独が常にそのベースにあるように感じられます。『クーリンチエ…』の後、二つの長篇映画をはさんで、約10年を経て撮られた『ヤンヤン…』で描かれるのも酷く悲しい現実です。小学生の男の子ヤンヤンとその家族のひと夏の生活を描いたこの作品は、ヤンヤンの叔父の結婚式(と子どもの誕生)で始まり、祖母の葬式で幕を閉じます。結婚式で倒れ昏睡状態に陥った祖母を回復させるため、家族が交代でもの言わぬ祖母に語りかけるうちに、各人が自分の人生に向き合わざるを得なくなる。母は自分の人生の空虚さに気づき宗教に救いを求めますが、結局何も得られない。父は会社の経営方針をめぐって共同経営者である友人と対立して悩む一方、偶然再会した初恋の女性と青春時代の失敗をとり戻そうと試みますが、再び失敗する。両親の庇護の下に安住していたヤンヤンの姉は恋をして外の世界に踏み出そうとしたとたん、その恋が残酷な結末を迎える…といった具合に。家族のそれぞれが自分の人生の問題に懸り切りになり、家族はいったんばらばらになります。しかし祖母の葬式に集った彼らの表情の変化からは、それぞれの経験を乗り越えて、そこから再び生きていこうという希望が感じられ、新たな家族の関係を築いていくであろうことが予想されます。たった一人祖母に語りかけるのを拒み、人には自分の後ろ姿が見えないように、物事には見えている部分のほかに、目に見えない「半分の真実」があるのではないかと思いつき、一人でそれを探求していたヤンヤンは、もの言わぬ祖母がみなにそれを気づかせたように、自分も人に見えないことを教えてあげたいと、最後に祖母に話しかけます。それは少年ヤンヤンの世界に踏み出した第一歩であると同時に、ヤン監督の新たな世界の始まりのようにも感じられたのですが、彼は2007年に59歳で世を去ってしまいました。
数年前、ある場所でエドワード・ヤンの作品を紹介する機会がありました。それを聞いていた人が、幸いにも彼の作品をとても好きになってくれて、彼女は私の友人になりました。じつはその人の縁で、今回『日記を書いて身につける中国語』を執筆する機会に恵まれました。本書の日記の例文の中には、個人的な経験から実感したことももちろん入っていますが、それらのほとんどは誰でもが感じ得る、どちらかといえば一般的な事柄だと思います。本書の中に最後の最後にそっと滑りこませた「エドワード・ヤン」の名前が、たぶんいちばんの「私事」です。

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