2025.06.06 著者のコラム 児童文学が生まれた風景:第1回『秘密の花園』とイギリスの庭 著者 牟田有紀子(むたゆきこ) 目次1.はじめに2.『秘密の花園』について3.ゆらゆらごちゃごちゃした庭の魅力4.『秘密の花園』の舞台5.もう一つ庭のご紹介:コートン・コート6.終わりに 1.はじめに 子どもは大人の父である——“The child is father of the man” と語ったのは、18世紀末から19世紀前半にかけて活躍したロマン派の詩人ウィリアム・ワーズワースです。この逆説的な一句には、子どもこそが人間の本質や感受性の源であるという洞察が込められています。そしてこのような思想は、イギリスの児童文学の発展に大きな影響を与えました。 18世紀までの児童文学は、子どもに道徳や宗教を教えるための「教訓の書」として位置づけられていました。しかし子どもに関する思想やロマン派詩人による子どもの価値の再発見を経て、19世紀後半から20世紀に入ると、子どもを一人の能動的な存在として描く作品が登場しはじめます。子どもの空想や感情、冒険心が物語の中心に据えられるようになるのです。 このコラムではイギリス児童文学を4つ取り上げ、物語が生まれた風景を一緒に見ていきたいと思います。大人になって児童文学を読む楽しさを共有できたら嬉しいです。 『秘密の花園』初版本の表紙、1911年 2.『秘密の花園』について 第1回目に選んだのは私の大好きな『秘密の花園』(The Secret Garden, 1911)です。子どものころに読んで、庭の描写の美しさに夢中になった方も多いのではないでしょうか。 『秘密の花園』は、フランシス・ホジソン・バーネットによる児童文学の名作です。主人公である孤独な少女メアリーは、生まれ育ったインドで両親を失い、おじの住むイギリスに送られ、ヨークシャーにある荒れた邸宅ミセルスウェイト・マナーで暮らすことになります。メアリーは長く閉ざされていた「秘密の庭」を発見し、ひそかに手入れを始めます。やがて彼女は、動物と心を通わせる少年ディコン、病弱な少年コリンと出会い、庭で楽しい時間を過ごします。庭とともに、子どもたちの心も癒やされ、再生していく物語です。 (Charles Robinsonによる挿絵) 3.ゆらゆらごちゃごちゃした庭の魅力 メアリーの固く閉ざされた心は、荒れ果てた「秘密の庭」を蘇らせようと一生懸命に庭仕事をすることで段々とほぐれていきます。大邸宅の庭園というと、ヴェルサイユ宮殿のような左右対称で直線的な配置の庭を想像するかもしれません。しかし『秘密の花園』に描かれる庭は整然とした幾何学的な庭ではありません。どこかごちゃごちゃしていて、自然のままにゆらゆらと風に揺れ、命がのびのびと呼吸する場所です。 "I wouldn't want to make it look like a gardener's garden, all clipped an' spick an' span, would you?" he said. "It's nicer like this with things runnin' wild, an' swingin' an' catchin' hold of each other.""Don't let us make it tidy," said Mary anxiously. "It wouldn't seem like a secret garden if it was tidy." 「ここは庭師が作るような、きっちり刈り込まれていて、きれいに整っている感じにはしたくないな。そう思わない?」と彼(ディコン)は言った。「こんな風に、草花がのびのび育って、揺れたり絡み合ったりしているほうがずっといいよ。」「きれいにしすぎないようにしようね。」とメアリーは不安そうに言った。「ちゃんと整っていたら、秘密の庭って感じじゃなくなっちゃうもん。」 幾何学的な庭が管理と秩序を象徴するならば、メアリーたちの庭は自由と成長を象徴するような庭です。この「ごちゃごちゃ感」こそが『秘密の花園』の中心です。抑圧された子どもが、大人のルールに縛られない庭で過ごすことで、本来持っていたはずの自分らしさや感情の豊かさを取り戻していきます。枯れていたと思っていたバラを生き返らせたり、新しい球根を植えたりして、思い思いに庭を造る子どもたちの姿は、自分の心のどこに何を置いて、何を大切にするのかは自分で決められるのだと教えてくれているかのようです。 (1993年版映画のトレイラー) 4.『秘密の花園』の舞台 『秘密の花園』の舞台としてモデルになったと言われるのが、イギリスのケント州にあるグレイト・メイサム・ホール(Great Maytham Hall)です。バーネットはこの邸宅で1900年代初頭に暮らし、コマドリに導かれて蔦に覆われ壁で閉ざされた庭を実際に見つけたというエピソードがあります。その経験が彼女の想像力をかき立て、物語の原型を作りました。現在のグレイト・メイサム・ホールの庭は整備されて、多少“gardener's garden”という感じもありますが、古いレンガの壁と秘密めいた小道が残されており、『秘密の花園』の面影を感じることができます。一般に開放されているのが年に一日だけなので、かなり観光には不向きではありますが、『秘密の花園』ファンは要チェックです。National Garden Schemeから予約したり庭の様子を見たりすることができます。YouTubeも本当に美しいのでぜひ見てみてください。 (グレイト・メイサム・ホールの写真:https://ngs.org.uk/great-maytham-hall-kent-the-most-famous-garden-in-literature/より) 5.もう一つ庭のご紹介:コートン・コート イギリスには「秘密の庭」を感じさせる庭がいくつもありますが、私のおすすめは、ワーウィックシャーのコートン・コート(Coughton Court)です。 コートン・コートの庭(https://www.nationaltrust.org.uk/visit/warwickshire/coughton-court/the-garden-at-coughton-court) ここは600年にわたり名門スロックモートン家の邸宅でありながら、ナショナル・トラストが管理しているお屋敷です。ガイ・フォークスの火薬陰謀事件にもゆかりがあるそうです。ロンドンからは遠いものの、週に5日程度、一般に開放しているので、グレイト・メイサム・ホールよりは行きやすいかもしれません。 ここにはローズ・ラビリンスと呼ばれる塀に囲まれた庭があります。草花が自然にのび、野鳥や蝶、蜂が飛び交う庭では、まるで「秘密の庭」を歩いているかのような体験ができます。もちろんこれは計算された上での「自由な」造園なわけですが、物語の世界に浸るには十分な空間です。 6.終わりに 『秘密の花園』が描いたのは、秩序ではなく自由が息づく庭でした。グレイト・メイサム・ホールやコートン・コートといった実在の庭にも、その自由さや余白が確かに残されているように思います。文学と風景の関係をたどることで、物語が描いた子どもや子どもの空間をより立体的に理解できると思います。旅行の際には、ぜひその土地が舞台の本を一冊読んでみてください。 牟田有紀子(むたゆきこ)城西大学経営学部准教授。宮崎県宮崎市出身。早稲田大学文学部英文学コースを卒業後、同大学大学院文学研究科修士課程英文学コースおよびイギリス・レスター大学ヴィクトリア朝研究科で修士号を取得。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程、同大学文学学術院英文学コース助手を経て、2018年より現職。専門分野は英語圏児童文学・文化研究で、特に少女小説や少女文化に焦点を当てている。修士課程ではフランシス・ホジソン・バーネットの研究に従事し、博士後期課程進学から現在に至るまでイギリス・ヴィクトリア朝の少女雑誌の研究をしている。