2025.06.13 著者のコラム 児童文学が生まれた風景:第2回『グロースターの仕たて屋』を訪ねて 著者 牟田有紀子(むたゆきこ) 目次1.はじめに2.『グロースターの仕たて屋』3.グロースターの街並み4.グロースターのもう一つの顔5. おわりに 1.はじめに ビアトリクス・ポター(Beatrix Potter)の名前を聞いて、まず思い浮かぶのは『ピーターラビットのおはなし』(The Tale of Peter Rabbit, 1902)と湖水地方の美しい自然ではないでしょうか。確かにポターの多くの作品は、緑豊かな丘や森、石垣に囲まれた農場など、イギリス北部の風景を舞台としています。ですが、その創作の舞台は決して湖水地方だけにとどまりません。イングランド西部の都市グロースターもまた、ポターにとって特別な意味を持つ場所です。 2.『グロースターの仕たて屋』 『グロースターの仕たて屋』(The Tailor of Gloucester)は、1903年に出版されました。ポターが「自分の作品の中で一番好き」と語った絵本です。この物語が生まれたきっかけは、ポターがグロースターを旅した際に耳にした、一人の仕たて屋にまつわるお話でした。クリスマスを間近に控えたある冬の日、体調を崩してしまった仕たて屋が仕上げることのできなかった上着を、夜の間に小さな妖精たちが完成させたというお話です。それを聞いたポターは、後にねずみを主人公にした『グロースターの仕たて屋』を書きました。 『グロースターの仕たて屋』の舞台は、石造りの古い家々が並ぶグロースターの街です。小さな仕たて屋が、クリスマスに行われる市長の婚礼用の上着を仕たてるという依頼を受けるところから始まります。仕たて屋はとても手の込んだ衣装の作成のために周到に準備をしたのですが、糸は足りなくなったり風邪をひいて寝込んでしまったりで完成の目途が立ちません。絶望する彼のもとに現れたのが、以前から店に出入りしていたねずみたちでした。夜のあいだにせっせと針仕事を続け、完璧な上着を仕上げてくれます。 3.グロースターの街並み (The House of the Tailor of Gloucester外観) この物語の魅力は、なんといってもポターが描いた挿絵の細やかさにあります。仕たて屋の部屋の様子、裁縫道具のひとつひとつ、ねずみたちが健気に針仕事をする姿、出来上がった服の柄など、どの挿絵にも当時の生活のディテールがちりばめられており、ポターのねずみへの深い愛が感じられます。そしてこれらの挿絵には、実際の街の建物や通りが丹念に描き込まれています。そのため読者は、絵本を読みながら「この建物、どこかで見たことがある」と感じることができます。 現在、グロースターには物語に登場する仕たて屋の店を再現した「The House of the Tailor of Gloucester」という小さな博物館兼ショップがあります。ここにある木のカウンター、棚に並んだ糸巻きや食器棚などは絵本の挿絵そのままで、物語の世界に入り込んだような気持ちになれます。周囲の通りにも物語に登場する風景が残っており、グロースターの街全体が一冊の絵本のようです。 (お店のディスプレイ) 4.グロースターのもう一つの顔 グロースターには、もうひとつの顔があります。それは、映画『ハリー・ポッター』シリーズとの関係です。街の中心にそびえるグロースター大聖堂は、第二作『ハリー・ポッターと秘密の部屋』の撮影に使用されたロケ地のひとつです。特に有名なのは、回廊の壁に「The Chamber of Secrets has been opened(秘密の部屋は開かれたり)」という血文字が現れる場面で、静まり返った回廊をハリーたちが緊張しながら歩く姿が印象的です。実際にその場所を訪れると、静かな回廊に身を置きながら、物語と現実が交錯するような感覚を味わえます。ポターが描いた小さなねずみたちの世界と、ローリングが描いた魔法使いたちの冒険譚というまったく異なる物語が、ひとつの街の中で響き合っています。 (グロースター大聖堂の回廊) 5. おわりに グロースターは、大きなテーマパークのような派手さはありません。だからこそ『グロースターの仕たて屋』の小さな愛おしい物語が生まれたのだと感じます。グロースターの街並みは、現実の世界のすぐ隣にひっそりと物語が存在していることを思い出させてくれます。ちなみに、日本でもビアトリクス・ポターの世界を体験できる場所があります。埼玉県にある「埼玉県こども動物自然公園」内には、湖水地方のヒルトップの家を忠実に再現したビアトリクス・ポター資料館があり、彼女の作品に登場する動物たちや暮らしの道具が展示されています。遠く離れた日本の地にも、ポターの作品に対する深い愛情が息づいていることを実感できる場所です。湖水地方やグロースターに行くのは簡単ではありませんが、埼玉県近郊の方はぜひ訪れてみてください。(埼玉県こども動物自然公園URL)https://www.parks.or.jp/sczoo/guide/000/000215.html 牟田有紀子(むたゆきこ)城西大学経営学部准教授。宮崎県宮崎市出身。早稲田大学文学部英文学コースを卒業後、同大学大学院文学研究科修士課程英文学コースおよびイギリス・レスター大学ヴィクトリア朝研究科で修士号を取得。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程、同大学文学学術院英文学コース助手を経て、2018年より現職。専門分野は英語圏児童文学・文化研究で、特に少女小説や少女文化に焦点を当てている。修士課程ではフランシス・ホジソン・バーネットの研究に従事し、博士後期課程進学から現在に至るまでイギリス・ヴィクトリア朝の少女雑誌の研究をしている。