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世界文学の証言者、メアリー・コラム:第2回 寄宿学校の初日と「田舎の暮らし」における〈変わり者〉たち

著者 小林広直

はじめに

 先日、『古畑任三郎』をサブスクリプションで見られることを知り、久しぶりに見返していたら、沢口靖子さんが犯人役を演じる第2シーズンの第2話「笑わない女」[1]でいささかびっくりしました(あれ、コラムさんの話じゃないの!?と思った方、ほんの少しだけお付き合いください)。事件の舞台は、宗教が母体となっていて厳しい校則で著名な全寮制の女子高なのですが、沢口さん演じる生活課主任教師兼寮長の宇佐美ヨリエは、この学校の卒業生であり、何よりも戒律を重んじるお堅い人物。その彼女が、同僚の国語教諭である阿部(相島一之さんが演じています)を殺害すべく彼の部屋へ行く際に、授業で使う本を貸して欲しいというのですが(ということは、宇佐美先生は英語の先生?)、なんとその本がジェイムズ・ジョイスの『ダブリナーズ』(1914)だったのです。高校英語でジョイスは難し過ぎない!?という疑問は措くとして、宗教の戒律を(ドラマの中ではどの宗教であるかは明言されていませんが、礼拝堂やマリア像などカトリック教会のイメージが散見されます[2])、他の誰よりも厳格に守る彼女の口から、「ジョイスの『ダブリン市民』」という言葉が出るとは!脚本家の三谷幸喜さんは、この短篇集が世紀転換期アイルランドのカトリック教会を徹底的に批判した作品であるということをご存じだったのでしょう。実に恐るべき皮肉です。

 えぇー、つまり、ここで私が言いたいのはですねぇ~、という古畑を演じる田村正和さんの声を脳内でリピートさせつつ(かの有名なオープニングであればこのあたりから、ダン、ダ、ダンと例の主題曲のイントロが始まることでしょう)、ポイントは以下の2点です。1996年に放送された2nd seasonをリアルタイムで見ていた当時13歳の私にとって、女子寄宿学校のイメージというとこのドラマの映像がまず思い出される、ということ、そして、おそらくは私が人生で初めて「ジョイス」の名を聞いたのはこのときだったはずなのに、私はつい最近までそのことを全く覚えていなかった、えぇー、つまり(しつこい)、実は運命の人には思わぬところで出会っていた、けれどその意義は、(人生における大方の重要な出来事がそうであるように)事後的に感得される、ということです。

 『古畑任三郎』ファンにはそれなりにお楽しみいただけたと思うのですが(かな?)、前回から本連載で紹介させていただいている、メアリー・コラム『人生と夢と』(多田稔監訳、三神弘子・小林広直訳、幻戯書房、2025年)は、彼女が13歳で寄宿学校に入学した最初の日の回想から始まります。正直に告白しなければなりませんが、私がこの翻訳プロジェクトに参加させていただくようになった約10年前、三神先生はちょうど第10章までを既に翻訳されていたのですが、正直最初の第7章までは全く面白くなかった、のです(次回の連載で扱いますが、第8章「大学に進学する」でコラムはいよいよダブリンに〈上京〉し、その初日に「アイルランド文芸復興」に出会います)。もちろん先生の訳文が悪いというわけではなくて、私の読解力のなさ故なのですが、それもそのはず、と言いますか、コラムは実に緻密かつ巧妙にこの自伝を書いているのです。ただ、その点を論じる前に、まずは本書第1章から第8章までを概観しておきましょう。

[1] https://fod.fujitv.co.jp/title/4195/4195120002
[2]ただし、この学校の厳格な校則については、いくらフィクションとはいえ、いささか過剰に戯画化されていると思わなくもありません。

第1章から第8章前半まで

本書の第8章までの目次は下記のとおりです。

第1章 子ども時代
第2章 寄宿学校の日々
第3章 昔ながらの教育
第4章 隣人たち
第5章 旅の楽士たち、バラッドの歌い手たち、放浪する人々
第6章 人々と土地
第7章 田舎の暮らし
第8章 大学に進学する

 第1章は彼女が13歳で寄宿学校に入学した最初の日から始まります。そして、第8章第1節の最後で、「私よりももっと熱心な読書家で、あらゆる芸術に対して、鋭い感受性を備えていた」友人が大学を中退して、ロンドンの新聞街である「フリート街」に行ったのに対し、18歳のコラム「はダブリンに留まり、アイルランドの文芸復興を世界に知らしめる男性たち、女性たちと知り合うことになる」(123-24頁、以下太字の強調はすべて引用者)とあります。よって、現在の日本の教育制度の分類に従うならば、ちょうど中学時代から高校時代に相当しますね。

 ここで興味深いのは、本書が伝記(自伝)に典型的な時系列に沿った記述ではなく、テーマ別に自らの少女時代を分けて記述されていることです。第1章は寄宿学校の最初の日々(1897年)から始まりますが、第1章第3節では「家族の中で起こった突然の死が、私の住む場所と未来を変えてしまった」とあり、これがどうやら1896年の祖母の死を意味するようなのですが、実はこれが1896年の出来事である、ということは本文では一切記されていません(私自身、三神先生のあとがきを読んで、この時系列のズレに気づかされました。この回想が多用される〈語り〉については本稿の最後で検討します)。そして、祖母の死後、コラムは遠縁の女性に預けられるのですが、大変不幸なことにこの女性もまもなく若くして――「三十歳くらい」(34頁)――肺炎で亡くなってしまったため、引き取り手のいないコラムは全寮制の寄宿学校に送られた、という事情があったようなのです。

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註:モナハンにある聖ルイ修道学校
(出典:https://stlouismonaghan.wordpress.com/history/

 続く第2章「寄宿学校の日々」では、再び入学したばかりの頃の思い出に一度戻った上でその後のエピソードが語られ、第3章「昔ながらの教育」の後半では、コラムが通った他の修道院の付属学校(そのうちの一つはドイツにあるようです)での経験も織り交ぜつつ、自身が大学入学までに受けた修道会での教育全般について語っています。その一方、第4章「隣人たち」では、学校の長期休暇で「生まれ育った田舎」に帰った時のエピソード(バートリーという老人との印象的なエピソードが語られます)、さらに第5章「旅の楽士たち、バラッドの歌い手たち、放浪する人々」では、「寄宿学校に行ってから」「意識的に見るようになった人々」(84頁)、今日のアイルランド研究では「トラヴェラー(traveller)」と呼ばれる非定住の人々が活写されています(コラム自身は、“Traveling Men”と書いていますが、一昔前の研究では鋳掛屋を意味する「ティンカー(tinker)」と呼ばれていました)。第6章「人々と土地」では、「大飢饉」から「土地戦争」などの19世紀後半のアイルランド史が手短に語られます。1800年の連合法の結果、アイルランドは1922年まで英国の一部だったわけですが(当時はthe United Kingdom of Great Britain and Irelandでした)、印象的なのは、いわゆる英国とアイルランド、あるいはプロテスタントとカトリックというような二項対立的な敵対関係がコラムの文章ではそれほど強調されていない、という点です。以下のような記述があります。

 私の時代には、あからさまな抑圧はなく、もしも国が無責任に統治されていたというなら、それはイギリスでも同じだった。イギリスは、アイルランド同様小さな国で、大多数は貧しい人々によって構成されていた。彼らはアイルランド人よりもある意味で幸福ではなかったかもしれない。なぜなら、アイルランド人は貧しい農民、もしくは農業経営者であったため、彼らには少なくとも何か食べる物があったし、追い立てられない限り屋根のある家で生活できたのに対し、貧しいイギリス人は雇用が安定しないことの多い工場労働者だったからである。(96頁)

 前回の連載で書いたように、本書の魅力は①交遊録②旅行記③歴史的資料の3つの側面から読めるという点にあります。上の引用部は、あくまでコラムの個人的経験と見解、とも言えますが、植民地統治はソフトな面がある(つまりは、上の引用における「無責任」さ)が故に長続きするものだと思いますし、貧しいイギリス人の方が実は大変だったのではないか、という一種のフェアな彼女の視点は、文芸批評家としての複眼的視点の賜物でしょう。と同時に、当時の人々が共有していた〈生の〉感覚を伝える資料としての価値がここに見出されるようにも思うのです[3]

 第7章「田舎の暮らし」で語られる一人の「物書きのおじ」についてのエピソードも上の文脈で捉えられます。彼は「中産階級に対する過剰な教育、少なくとも古典的で文学的な教育」に批判的で、「アイルランドの歴史や国が搾取された経緯について、深い知識を持っていた」ものの、文芸復興運動やゲール同盟などの「新しい文化運動」に対しても「強い偏見を持」っていた「古いタイプの愛国者」だったと、(彼への愛情や敬意を示しつつも)コラムは冷静に分析します(110-12頁)。歴史的事実としてはこの「新しいアイルランド」の世代が、政治的独立を勝ち取り、文化の面でもイェイツやジョイスなどの天才たちを輩出してゆくわけですが、もちろん彼らとて当時の同胞たちから全面的に支持をされていたわけではありません。その他、この章では「移民」としてアイルランドを去って行く人々(19世紀半ばの大飢饉によってアイルランドでは約800万人いた人口が、20世紀初頭には約300万まで落ち込みます)、あるいはアメリカから帰ってくる人々の双方も描かれています(この点でも前者がアイルランド史ではどうしても強調されますので、興味深い点です)。

 以上見たように第8章の前半までは、大別するならば「寄宿学校の生活」と「田舎の暮らし」の2つが活写されているので、読み物としても大変面白いのですが(前者は故郷を離れるという点では一種の「旅行記」ですし、後者は著名人ではないものの「交遊録」に違いありません)、歴史的資料として参照できる点が多いような気がします。

[3]  例えば、私自身、現在の日本は未だアメリカの〈属国〉であると思っていますが、あくまでそれは政治・経済的なシステム上の問題であり、個人としてのアメリカ人に敵意を向けることはナンセンスと言うべきでしょう。とりわけ排外主義が蔓延っている昨今、国(政府)と個々人を分けて考えるという視点は、国内外共に政治を語る上で、気を付けなければならないことだと思っています。

「寄宿学校での最初の日」

 第1章の寄宿学校の描写に話を戻しましょう。1884年6月生まれのコラムが13歳で入学、18歳で卒業をしたということは[4]、1897年~1902年、すなわち世紀転換期のアイルランドの女子修道学校の様子が本書では活写されていると言えるでしょう。1882年2月生まれのジェイムズ・ジョイスの『若き日の芸術家の肖像』(1916)(以下、『肖像』)では、イエズス会が運営するクロンゴウズ・カレッジやべルヴェディア・カレッジ(いずれも男子校)の様子が描かれますので[5]、それと比較して読んでみるのも一興かと思います。

 コラム自身、ジョイスの『肖像』はかなり意識していたようです—「学校の静修における瞑想や説教は、ジョイスの『若き日の芸術家の肖像』の中に、忘れがたい筆致で描かれている。それは新鮮で完璧で、かつ誠実に描かれているため、その他の作家が同じ情景を描こうとしても二番煎じになるだけである。従って、私はジョイスが書いたことの重複は避け、自分の学校だけに特徴的なことを書こうと思う」(63頁)と述べています。ただし、以下のような静修期間の「時間割」はジョイスの作品には描かれていないため、資料として大変興味深いです。

六時十五分  鐘の音で起床、洗顔、着替え
六時四十五分 チャペルでの瞑想
七時十五分  ミサ
八時     朝食
八時三十分  ベッドを整え、寮の清掃
九時     信仰修養書を読む
九時三十分  チャペルでの説教
十時三十分  黙想に入る
十一時三十分 キリスト教の教義の学習
十二時    昼食
十二時三十分 校庭を散歩
一時     信仰修養書を読む
一時三十分  ロザリオの祈り
二時     針仕事と繕いもの
三時     正餐
三時三十分  十字架の留の道行き
四時     チャペルでの説教
五時     懺悔
七時     夕食
七時三十分  懺悔
八時三十分  説教と終わりの祝祷
九時三十分  就寝
 いかなる時も、いかなる場所でも沈黙を保つこと  (63頁)

 「一年に三日間」とはいえ、静修が「十五時間に及ぶ」というのは私自身、かなりの驚きでした。「宗教的な瞑想、宗教的実践、死後の生への瞑想に専心し」「文字通りの沈黙を保」っていたということで、事実、ある年に4日間に延長したときは「ヒステリーの発作を起こした」生徒もいたようです(62-64頁)。コラム自身、「戦前のこのような教育は、同じ規律で同じ理想という点で、ヨーロッパ中で見ることができた」(54頁)と書いているので、ヨーロッパの女子修道学校での教育の1つのサンプルとしてお読みいただけるのでは、と思います。

 さてここで(ようやく、という感もありますが)、本稿の冒頭で書いたように、なぜこのアイルランドの少女時代が初読の際に(少なくとも私にとっては)面白く感じられなかった、という点を、自省の念も込めて論じてゆきましょう。

『人生と夢と』は以下のように始まります。

 寄宿学校での最初の日は、生きている限り、私の記憶の中で特別な一日であり続けることだろう。それは、生まれたばかりの赤ん坊から十七、八歳までの、あらゆる年代の少女たちが作る共同体、また修道女たちが作る共同体へと、第一歩を踏み出した日なのだった。[中略]それは、心霊術の霊媒が本の中で述べている死後の変化というものにどこか似ていて、死んでしまった自分が、現世と少しばかりつながりのある新しい世界に足を踏み入れたような感覚だった。(17頁)

 ここで重要なのは「新しい世界(a new world)」という表現です。連載第1回でご紹介したようにスライゴー州生まれの彼女がやって来たこの寄宿学校は、モナハン州に(現在も)あるのですが、下記の地図で見ていただくとわかるように結構な距離(約120キロ)があります[6]

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 なお、上の図ではメアリーが生まれたスライゴー州のクルーニーを始点としていますが、祖母に預けられて育った同州のバリソデアはそこから北へ4キロ、海沿いにある小さな町です(現在の人口は15,000人とありますから、19世紀末はもっと少なかったことでしょう)。

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コラムがなぜ両親のもとではなく、祖母のもとで育ったのかについての理由も語られることはないのですが、さらに興味深いのは、上記に書いた土地や寄宿学校の名前が一切この伝記には出てこないという点です(加えて言えば、両親の名前や祖母の名前すら本文では明示されていません)[7]。先に引用した冒頭の記述のすぐ後で、「寄宿学校に入るまで、私はアイルランド西部の片田舎で、読む本にこそ恵まれていたが、絵画にも音楽にもほとんど縁のない子ども時代を過ごしていた」(17頁)とありますし、第6章で「私がよく知っている[アイルランド]北西部」(93頁)、第7章で「大西洋沿岸のアイルランド西部」(109頁)と書かれているので、なるほどコナハト地方にあるスライゴーの特徴に当て嵌まりますが、初読ではうっかり読み飛ばしてしまう箇所でしょう。

[4]  ただし、本当に18歳で卒業したのか、というのは、彼女が初めてダブリンに来た時の記述と合わせて正確でない可能性があります。詳しくは、繰り返しになり恐縮ですが三神先生のあとがきをお読みください(ただし、できれば本文を全部読んだ後で…(しつこい))。
[5] ジョイスの父、ジョンが9歳で破産したため、途中空白の時間がありますが、ジョイスの分身であるスティーヴンは、6歳半にクロンゴウズに入学し、16歳でベルヴェディアを卒業、20歳に大学(現在のUCD)を卒業しております。ジョイスの実人生とスティーヴンの人生の時系列に関するズレについては、田中恵理さんの秀逸な下記の論文をご参照ください――「自伝性と虚構性の再考――『若き日の芸術家の肖像』におけるずれた時間軸の狭間から」『ジョイスの迷宮――『若き日の芸術家の肖像』に嵌る方法』金井嘉彦・道木一弘編著、言叢社、2016年、78-96頁。
[6] アイルランドは伝統的に4つの地方(province)に分かれていますが――北のアルスター、東のレンスター、北西のコナハト(コノート)、南西のマンスター――コラムの生まれ故郷のスライゴーはコナハト地方に、寄宿学校のあるモナハン州はアルスター地方にあります。
[7] ただし祖母の名前は本書の「献辞」に「キャサリン・ガニング」と書かれています(11頁)。

 なぜ自伝というジャンルでありながら、このように固有名詞が徹底的に伏せられるのでしょうか。いろいろ理由は考えられるでしょうが[8]、コラムはここで、彼女の人生がある意味では同じ時代を生きた人であれば誰にでも起こりえることであった、という一種の普遍性、あるいは人生の可能性(~だったかもしれないという意味でのあり得たはずの人生、そのpossibility)を描き出そうとしたのではないか、と思います[9]。寄宿学校での生活をコラムは下記のように語ります。

 修道院という場所は、本当に小さな、それ自体が独立した全体主義国家で、そこでは生活は厳しい規則にのっとって送られることになっていて、規則を守らなかった者、守れなかった者は罰を受けた。しかし、私にとっては、たとえ厳しいものであったとしても、修道院での生活は幸福で満ち足りたものとなった。
 他の生徒と同じように振る舞う努力をすることが、いつも何よりも大切なことだった。私たちは皆そっくりだった。同じ時間に起き、同時に顔を洗い、同時に着替えた。一緒に同じ祈りを唱え、同じ制服を着た。(44頁)

 「全体主義国家」という比喩には一瞬ギョッとさせられますが、コラムがこの自伝を書いたと推測される1930年代はまさしくファシズムが台頭した時代でしたから、「同じ」であることを「皆」に求めるという抑圧的態度に、彼女はその共通性を見たのでしょう。コラムはこの引用の直後もう一度「全体主義」という言葉を使い、「民主主義の世界に生きている私たち」(45頁)とも言い、この二つの主義を対立させていますが[10]、やはり鍵となるのは〈自由〉の問題であるように思えます。現代の日本に住む私たちは、(少なくとも基本的には)住む場所や職業や信仰、結婚相手を自由に選ぶことができますが[11]、しばしば指摘されるように、このような自由(そして、基本的人権)は〈近代〉によってもたらされたものです。コラムはアイルランド社会について、第6章の冒頭で以下のように述べています。

 私が生まれ育ったアイルランドは、同世代のアイルランド作家たちに言わせると、封建時代のままの国ということになっているが、私自身は、十八世紀的要素と中世的要素が入り交じった国であるというのが本当のところではないかと思っている。東部、特にダブリン周辺のペイルと呼ばれる地域では、十八世紀的要素がすっかり浸透しているが、私がよく知っている北西部においては、近代と呼べる要素はほんの一部にすぎず、ほとんど、何百年もの間、変化なく同じようなやり方で人々は生活し続けているのだった(life had gone on pretty much in the same way for hundreds of years)。(93頁)

ここで注目すべきは「封建時代」すなわち「中世」、そして「近代」でしょう。構造主義の旗手、クロード・レヴィ=ストロースが『野生の思考』(1962年)の中で「冷たい社会」と「熱い社会」という用語で説明したように、近代以前の未開社会は、文明社会の直線的な発展ではなく、円環的な社会でした[12]。そこでは季節が毎年巡ってくるように、「同じようなやり方」が社会の常態だったわけです。本エッセイの連載第1回で概観したように、コラムの生涯は自国アイルランドの独立運動だけでなく、二度の世界大戦によって翻弄された人生でしたが、ある意味では前近代的なアイルランドの(北)西部から、近代化の過程にあったダブリン、そして近代化を果たしたニューヨークやロンドン、パリへとまさに移動によって〈近代〉を直接的に体験していった人生とも言えます。

 では、近代化以前の「同じような」「人々の生活」、その人生(life)からコラムが抜け出すことができた最大の要因は何だったのでしょう。私はやはりそれは広義における「教育」だと思います。本書第3章のタイトルは「昔ながらの教育」となっていますが、その「昔ながら」が意味するのは、(前回のエッセイで指摘したような)文学の「黄金時代」故の「文学に偏った教育」(49頁)という意味だけではありません[13]。それは近代化による社会の急速な変化の中で、時代遅れとなった、多分に宗教的な価値観でした。

 彼女たち[修道女たち]が見せた、没我的で、寛大で、献身的な態度は、修道院以外の世界で目撃されることは、ほとんどないということが後になってわかった。また、ヨーロッパ大陸の修道院で教育を受けた女性と出会って話をしてみると、私たちは、痛ましいほど同じような体験をしているのだった。学校時代に叩き込まれた思想や理想に従って生きていくと、しばしば大失敗をすることになった。同じような環境で育てられた人々の間では支障はなかったが、この小さな世界、古いヨーロッパのカトリックの伝統から一歩でも踏み出してみると、私たちが人生と生き方について教えられたことは、ほとんど役に立たなかったのである。それはすばらしい世界だったかもしれないが、狭い世界で、外の世界へ一歩踏み出した者は誰も、学校で受けた教育のほとんどが消し去られるように感じるのだった。この学校の伝統は、他に三つ四つ私が在籍した学校と同様、上流志向のものだった。生徒も教師もできうる限り中流階級の出身者が集められ[中略]どこでも伝統は同じだった。戦前のこのような教育は、同じ規律で同じ理想という点で、ヨーロッパ中で見ることができた。アイルランドの修道院寄宿学校から、フランス、ドイツ、ベルギーなどの寄宿学校へ転校したとしても、違いはほとんどなかったことだろう。似たような規律、同じ習慣や風習、同じ制服、同じ宗教上の訓練、同じ祈祷書、聖人や殉教者の同じ物語に加え、生ではなくて死のために準備しておかねばならないといった考えを叩き込まれていたおかげで。(54頁)

またしても「同じ」という単語が反覆されているのが象徴的です。本書を読んでゆくうちに気づかされるのは、コラムは生来反抗的、と言いますか、理不尽なことには黙っていられない、ある意味では喧嘩っ早い人だということです(事実、そこにこそ彼女の人間的魅力があります)。言い換えれば種々の抑圧に対し、生涯闘う女性であったと言えます[14]。修道院の持つ価値は充分認めつつ、「全体主義国家」という比喩にも見られるように、皆と「同じ」であることを求める価値観を彼女はどうしても受け入れられなかったに違いありません。私が先に「広義における」教育と書いたのは、反面教師という言葉が示すように、教育は時にその教えに反発する精神を子どもに付与するという機能があります(故に、教員は強制と寛容の狭間で個々の学生・生徒にとってどちらを優先的に配分すべきか常に迷うわけです)。

 そして、そのような「修道院」の「狭い世界」から「外の世界」へ出てゆく可能性の存在を教えてくれた存在に、もしかするとコラム自身も気づいていない可能性があります。ドイツの寄宿学校時代に出会ったアメリカの娘たちについて、彼女は以下のように書いています[15]

 アメリカ娘たちが私たちとは違っているということは、誰もが認めていた。彼女たちの遠い故郷では、若者が厳しく躾けられることがなく、勉強もしなくてよいということだった。その未来は、私たちの未来とは異なっていて、どんなことでも起こりうる可能性がある気がした。一方、私たちの未来はあらかじめ定められていて、驚くようなことは何も起こらないように思われた。(73-74頁)

さらに、大学に入学する直前のコラムが、「放浪する人々」の一人、「神父様」と呼ばれていた盲目の男性との会話の中で語っていることを見てみましょう。

「あなたは、大学に進学し、ヨーロッパ大陸に行く予定だと聞きました」と彼は言った。
「そうです」
「その後は」と彼は続けた。「あなたの能力と教育を活用できる、教育に熱心な修道会が運営する修道院に入るのが最上だと思いますよ」
「そうしたいとは思いません。私は世界とそこに生きている人々を見たいんです
「世界は邪悪なものです。人生は問題だらけです。修道院はあなたにとって、最も安全な場所ですよ。あなたは、世間の荒波に立ち向かうようには育てられてはいません」
 修道院が、人生の諸問題から自分を守ってくれる安全な場所であると考えたことはそれまでになかったが、それ以降、多くの国を訪れ、作家として生きることの悩みや心配を経験した後では、時折、そのような考えに納得することもあった。しかし、人生には無限の可能性があると考えていた十八歳の私は、盲目の男の言葉を聞き入れることはなかった。[中略]
 「ここ以外の場所も、世界中にあるはずだし、私のことを気にかけてくれる人たちもいると思います」(90頁)

コラムは本書でその関連性を明示していませんが、ドイツの寄宿学校で出会ったアメリカ娘たちの未来が「どんなことでも起こりうる可能性」があると感じられた、というその経験が、「人生には無限の可能性があると考えていた十八歳の私」を形成したのではないでしょうか。他の皆と「同じ」であることを(過剰に)求められた寄宿学校、並びに前近代的であった「田舎の生活」から、より広い「世界を見たい」と願い[16]、ここではないどこかに憧れ、そこにはきっと私を受けて入れてくれる誰かがいるはずだという確信――それは恐らくどんな時代であれ若者が抱く、己の人生への期待であり、言うなれば一種の夢なのだと思います[17]

 ところで、ジョイスの『肖像』はしばしば自伝的教養小説と呼ばれますが、この作品が通常の教養小説と大きく異なるのは、彼の少年時代が時系列に沿って並べられつつも、そこにはいくつもの〈回想〉や象徴的な断片的エピソードが提示されることによって、過去に起きた<出来事>があたかもすべて彼の芸術家としての運命の発見へ収斂してゆくかのように見えるというその語りの操作性にあります。その意味で『人生と夢と』が寄宿学校の第一日から始まっているということ、言い換えれば、故郷から新しい「世界」への移動が実は本書の冒頭以前に既に行われ、そのあとでその出発点より前の過去の出来事が回想されるという時系列を混乱させるような語りをコラムはジョイスの『肖像』から学んだのかもしれません。また、「世界文学」の要素には、複数の文化を体験する〈越境性〉がしばしば挙げられますが、彼女は確かに人生の始まりにおいて既に、アイルランド西部の故郷から離れることで実践していたことになります。やがてより広い世界であるアメリカ、そしてヨーロッパ大陸へと移動することとなる自身の運命を、ある意味では予言的に描いているのが本書の冒頭の記述なのでしょう。

 あるいは以下の記述は、単純に言えば伏線ということになるわけですが、これまで本稿で論じた点を踏まえた上で再読する人にとっては必ずや注意を引く箇所になるように思います。

 しかし、この風変わりな家を持たない男は、私のことを気に入っていたと思う。実際、この男に限らず、孤独な放浪の男たちと私の間には、常に互いに感じあう何かがあった。[中略]子どもの私に対し、放浪の男たちは、父親の眼差しを投げかけていたのだと思う。確かに、バートリーやこの盲目の男はそうだった。私が成長するにつれ、私が彼らに対して感傷的な想いを抱いていることに、彼らは気づくようになった。私がさらに歳を重ねると、今度は、彼らは、私よりはるかに歳を取っているにもかかわらず、まるで子どものような眼差しで私を見つめ、私から母親のような愛情を求めるようになった。私は、当時も今も、彼らに対して強い感情を持ち続けている。どうも私には、〈変わり者〉に心惹かれる傾向があるようだ。そして、扶養家族も責任もない孤独な男として放浪の暮らしを続けることは、間違いなく、個性を引き出し〈変わり者〉となる絶好のチャンスなのだった。(89頁)

自伝でありながら、父と母の思い出が全く語られない本書にあって、孤児であったことを明確に語らなかったコラムの心の痛みを思いやることもできるでしょう。しかしより重要なのは、第8章以降本書を貫く様々な天才たちとの邂逅が、少女時代の彼女にはその意味が十全に明かされることのないままに既に起こっていた、ということ、そして確かに彼ら「〈変わり者〉」との交流とその「孤独」への共感が、その後の彼女の人生を運命的に予告している、と見ることもできるような気がします。ご承知の通り、私たちが最初の出会いの意義に本当に気づくのは(多くの場合)2回目以降のときですし、天才というのは例外なく、「〈変わり者〉」であり、「孤独」ですものね。

 最後に次回予告、です。いよいよ本書最大の魅力である「華麗な」交遊録が始まる第8章で、文芸復興の最盛期にあったダブリンと出会うコラムの姿が描かれます。特にW・B・イェイツとレディ・グレゴリーとの関係にフォーカスし、引き続き本書の魅力を皆さんと共有したいと思います。

[8] 本書の「少女時代」の固有名詞の少なさについては、三神先生の「訳者あとがき」を読んで初めて気付かされた、ということも告白しておくべきでしょう。ですので、本エッセイはこの論点を別の、より広い視野から語り直したものと言えるでしょうか(大風呂敷を広げただけ、とも言えますが)。
[9] より正確に言えば、アリストテレス的な「可能態」、ということになるのでしょうが、この点については細かい議論が必要なので別の機会に譲りたいと思います。
[10] また個人主義との対比でもコラムは語っています――「宮廷や軍隊や全体主義国家がそうであるように、修道院は個人というものにあまり重きを置かないところだった。すべて、総体的な善、総体的な規則のためにあった」(38頁)。
[11] 「私はこの国で一生を送ったかもしれなかった」(24頁)という記述からは、ずっと生まれ故郷に留まったかもしれないという可能性、あるいは「当時、その地方では、結婚はすべて見合い結婚だった」(80頁)という記述からは自由恋愛のないカトリック社会の実情が仄見えます。
[12] 言うまでもなく、レヴィ=ストロースの主張は、この「未開」と「文明」の二項対立には優劣は付けられない、未開には未開の独自の「野生の思考」があるということが重要です。なお、創世記から最後の審判という始まりと終わりがあるキリスト教的歴史観の直線性と、季節が循環すると捉えるケルト的歴史観の円環性の対立はしばしばアイルランド文学を考える上で重要な論点です。
[13] コラムは第2章で次のように書いています――「アイルランドの中等教育と大学教育の恩恵に預かった、教養が深く、博学な友人たちの顔が何人も思い浮かぶのだが、それは非常に文学に偏った教育ではあった。もっとも、第一次世界大戦前のヨーロッパの教育はどこでもそうだったと言えるかもしれない」(49頁)。
[14] 第32章「文芸批評家」と題された章でコラムは次のように書いています――「それでも、反論することが許されている限り、私は批判されても一向に気にならなかった。というのも、長らく男性の仕事とされた批評という仕事を続けるにつれて、私は熟練の戦士にならざるをえなかったのである。この点に関して、私はアイルランド人としての民族的才能に恵まれており、細身の剣も棍棒も、どちらもなかなか見事に使いこなすことができた」(497頁)。
[15] ちなみにそのうちの一人の「アメリカ娘」は、ローズ・フィッツジェラルド、つまり後に第35代大統領となるジョン・F・ケネディ(1917-1963)の母です。1957年に死去したコラムにはもちろんこのことを知る術はありませんが、それにしても彼女の〈出会い運〉の凄まじさが窺い知れます。
[16] 原文では“see the world”という表現が使われていますが、この英語表現には「世間を知る」「世故に長ける」という含意もあります。さらに言えばこの引用部の「気にかけてくれる」は“care about me”となっています。世話や介護や好意だけでなく、他者への配慮や思い遣りを含む「ケア」の思想は、今とは異なる世界でも私は歓待されるはずだ、という一種の約束を、私たち一人一人がどれほど子どもたちに提示できるか、という問題に繋がる気がします。
[17] もちろん第二次世界大戦後に一世風靡をした実存主義の提唱者、J=P・サルトルが喝破したように、「人間は自由の刑に処されている」という、自由であるが故の苦しみが、とりわけ今日のインフォデミック且つ、SNSによる相互監視下にある世界では、蔓延っているのかもしれませんし、内向き志向の若者が現代日本で増加しているというニュースもよく耳にします(子どもの貧困が深刻化している社会的側面も見逃してはならないわけですが)。


記事を書いた人:小林広直(こばやし ひろなお)
東洋学園大学グローバル・コミュニケーション学部准教授。
埼玉県富士見市出身。早稲田大学第一文学部を卒業後、同大学院修士課程、University College Dublin修士課程(Anglo-Irish Literature and Drama)、早稲田大学文学研究科博士課程修了。博士(英文学)。早稲田大学文学学術院英文学コース助手、日本学術振興会特別研究員PD、東洋学園大学専任講師を経て、2021年より現職。共著に『ジョイスの罠――『ダブリナーズ』に嵌る方法』、『ジョイスの迷宮――『若き日の芸術家の肖像』に嵌る方法』、『ジョイスの挑戦――『ユリシーズ』に嵌る方法』(以上、言叢社)、『幻想と怪奇の英文学4』(春風社)など。現在、『ダブリナーズ』全15篇を3年かけて読破するオンライン読書会Deep Dubliners(https://www.stephens-workshop.com/deep-dubliners/)を主催している。

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