2025.09.05 著者のコラム 世界文学の証言者、メアリー・コラム:第1回 作者メアリー・コラムについて 著者 小林広直 目次はじめにメアリー・コラムについて戦争と文芸批評家、文学の「黄金時代」 はじめに あなたは、『ミッドナイト・イン・パリ』(2011年)という映画をご覧になったことはありますか?[1] 本当は小説を書きたいけれど、ハリウッド映画のシナリオライターをしているアメリカの青年ギル――彼はフィアンセとのパリでの旅行中、夜12時の鐘が鳴ると共に突然目の前に現れたアンティーク・カーに乗せられ、とあるパーティーに行き着きます。すると、「ゼルダ」という名の女性から話しかけられ、その夫はスコット・フィッツジェラルドと名乗り(しかも、“Who are you, old sport?”というのですから、もう、たまりません[2])、その後訪れたバーではヘミングウェイと出会い、さらにはガートルード・スタインを紹介され……そう、ギルはシンデレラとは正反対に真夜中の鐘の魔法に導かれ、1920年代、「黄金時代(Golden Age)」のパリに迷い込んでしまった、というわけです。 映画ではその後、パブロ・ピカソ、サルバドール・ダリ、ルイス・ブニュエル、マン・レイ、アンリ・マチスと、まさにモダニズム芸術を代表する大物たちが続々と登場するのですが(ジェイムズ・ジョイスを研究している本稿の筆者としては、彼が登場しないのは至極残念なのですが、まあ、それは措くとして)、確かに私たちは自分が読んでいる本の作者に実際に会ってみたい!おしゃべりしてみたい!と思うことってありますよね。それが自分の生まれる前の時代、さらには、異国であればなおさらのこと、1920年代のパリはまさに世界中の芸術家たちが集う場所、その「黄金時代」でした。 つい先日のことなのですが、とある研究会でカラヴァッジョに題を取った、フランク・マクギネス(1953-)の『イノセンス』[3]という演劇を読んだ際、参加者のお一人のNさんが「私は昔からカラヴァッジョが好きで、ずっと彼と話をしてみたい!と思っていたんですけど、今回この作品を読んで、なんだか実際にカラヴァッジョに会えた気がして、本当に嬉しかったです」と仰っていました[4]。言うまでもなく、映画を含む文学作品において、その人物が実在するか否かに限らず、私たちが彼ら彼女らと出会い、読書や鑑賞という名の対話を通じて、時に友や師となり得る――それって確かに当たり前のことではありますが、改めて考えてみると、奇跡と呼んでもいいのかもしれませんよね。『ミッドナイト・イン・パリ』は、私たちのそのような〈夢〉を(わずかな時間であれ)叶えてくれる映画だと思います。 [1] http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=49529[2] 一応注を付けておきますと、“old sport”は、スコット・フィッツジェラレルド『グレート・ギャツビー』(1925)の主人公の口癖とも言える、話し相手への気取った呼びかけです。野崎孝訳では「親友」、村上春樹訳では初回で「あなた」に「オールド・スポート」とルビが付され、その後は「オールド・スポート」となっています。[3] フランク・マクギネス『イノセンス――カラヴァッジョの生と死』三神弘子訳、『フランク・マクギネス 現代アイルランド演劇5』清水重夫・的場淳子・三神弘子訳、新水社、2001年、77-140頁。[4] 散会後、参加されていた訳者の三神先生と二人だけでお話をする時間があったのですが、先生が「久々にフランクに連絡をしてみようかしら[註:三神先生はマクギネス氏の研究者であり、ご友人でもある]。だって、実際に会って話ができた気がした、なんて、作家冥利に尽きるものね」と嬉しそうに述べておられたことも思い出されます。 今回から全4回に亘って紹介させていただくメアリー・コラムの伝記、『人生と夢と』(多田稔監訳、三神弘子・小林広直訳、幻戯書房、2025年)も、この映画に負けないくらいの、(使い古された比喩ですが)まさに綺羅星の如き有名人たちが多数登場します。ちょっと書き出してみましょう。 W・B・イェイツ、ジェイムズ・ジョイス、レディ・オーガスタ・グレゴリー、モード・ゴン、ジョージ・ムア、ジョージ・バーナード・ショウ、A・E(ジョージ・ラッセル)、J・M・シング、パトリック・ピアス、トマス・マクドナー、ロジャー・ケイスメント、コンスタンス・マルキェヴィッチ、T・S・エリオット、エリノア・ワイリー、ハート・クレイン、ウィラ・キャザー、ユージン・オニール、ポール・ヴァレリー、アンドレ・ジッド、アルベルト・アインシュタイン、リヒャルト・シュトラウス、レオン・トロツキー、フランクリン・ルーズベルト、などなどです。 もちろん、これらの人物はコラムが実際に会って、おしゃべりをしたことのある人物たちで、その他にも多くの文学者や芸術家、思想家や政治家、宗教家が言及されています。メアリー・コラムという名前を知っている人は英語圏文学の研究者でもわずかだとは思いますが[5]、アイルランド文学を代表するイェイツやジョイス、あるいはアイルランドの歴史を語る上で欠くことのできないパトリック・ピアスやモード・ゴンなどと、親密な交際をしていたメアリーが彼ら彼女らをどのように見つめ、描き出していたか、という一種の交友録としての魅力が本書にはあります。加えて、1914年以降アメリカに渡り、ニューヨークを中心に、コネティカット、シカゴ、さらにはハワイを訪れたコラム夫妻の旅行記としても、さらには、20世紀前半のロンドンやパリという街(とそこで出会った人々)を活写した歴史的資料としても読むことができそうです。詳しくは三神弘子先生による「訳者あとがき」で解説されているので[6]、本連載では割愛しますが、ヴァージニア・ウルフとの〈確執〉は、本書の読みどころの一つです。 コラムと上記の人物の交流については今後の連載に譲るとして、今回は第1回ということで、作者のメアリー・コラムについて紹介をしたいと思います。と、その前に、まずは自己紹介、ですね。 東洋学園大学(グローバル・コミュニケーション学部)で、英語と英語圏文学・文化を教えております、小林広直と申します[7]。生まれも育ちも埼玉県で、現在も川越市(の端っこ)に住んでいます。専門は先に書いたように、アイルランド文学(より正確に言えば、英語で書かれたAnglo-Irish Literature)、とりわけ20世紀を代表する小説家、ジェイムズ・ジョイスの研究です[8]。今年4月に共訳書としてメアリー・コラムの『人生と夢と』を出版いたしました[9]。これまでジョイスに関する研究論文をいくつか書いてきましたが、今回は翻訳書ということで一般読者(Common Reader)の皆様にもお手に取っていただきやすいとは思いますし、私が共訳者として参加させていただいてから約10年の月日を費やしましたので(もちろん、サボっていたわけでなくて、それぞれ他の仕事が沢山あったため、ですが)、並々ならぬ想い入れがあります。2段組みで約700頁、監訳者の多田稔先生のご意向もあり、とにかくたくさん註を付けましたので(全部で約1000個あります)、索引(この作業が、本当に本当に、大変でした)と突き合わせて、アイルランド文化や文化の(小)事典として使っていただけたら、という密かな思いもあります。ぜひ、お住まいの自治体の図書館にリクエストする、という方法でも結構ですので、一度お手に取っていただけたら幸いです。 [5] 私は2024年度に本務校から研究休暇をいただき、ヨーロッパの各地で世界中のジョイス研究者とお話しする機会があったのですが、コラムや本書の名前を出しても、知らない、(知ってるけれど)読んだことがない、と仰る方が結構多かったです。[6] ある意味では手前味噌、なので書くのが少し憚られますが、三神先生の「訳者あとがき」では本文で書かれていない衝撃の事実が明かされます。本好きの方はあとがきから読まれることも多いと思うのですが、ぜひ本文を読み終わってから最後にお読みくださいね。[7] 本コラムをお読みのみなさまにはご存じの方も多いかとは思うのですが、日本の研究者が書いた論文(の多く)は下記のサイトからダウンロードをして読むことができます。 https://cir.nii.ac.jp/ ぜひ皆さんがお好きな作家、あるいは作品の名前を入れて検索をしてみてください。[8] ジョイス研究者の友人、南谷奉良さん&平繁佳織さんと下記のようなサイトも運営しております。ジョイスを読む際には必須です!(たぶん)https://www.stephens-workshop.com/about-us/kobayashi/[9] 幻戯書房のサイトをご紹介しておきます。https://genkishobou.stores.jp/items/67b54b0d5b90ec0227970981 メアリー・コラムについて さて、ここからは、作者のメアリー・コラム(1884~1957)について紹介したいと思います[10]。1884年6月13日、スライゴー州のクルーニーで生まれたメアリーは、自伝である本書でも明らかにされていないのですが、どうやら両親は彼女が物心つく前から別居していたようで[11]、祖母の家に引き取られ、多くのおじたちに囲まれて育ちました[12]。祖母の死後、13歳でモナハン州の寄宿学校に入学し(本書は、この寄宿学校の最初の日の描写から始まり、祖母の死や最初の読書体験、あるいは、野原や川を走り回ったお転婆娘だったときのことなどが〈回想〉されます)、18歳でダブリンの国立アイルランド校(現在のUCD=University College Dublin、2歳年上のジョイスも同校の卒業生です)に入学します。彼女がダブリンに上京してきた1902年は、まさにアイルランドの文芸復興運動の最盛期でした(これについては第3回で詳しくご紹介します)。 大学卒業後はパトリック・ピアスが経営する聖イタ校で講師として働きながら、友人たちと月刊誌『アイリッシュ・レビュー』(1911~14)を創刊し、論考を寄稿するだけでなく編集にも携わります。そこで同誌の編集仲間であったポーリック・コラム(1881~1972)と1912年7月に結婚します。28歳のことでした。そこで、ピッツバークに住むポーリックのおばから新婚旅行としてアメリカに来るよう招待されたことがコラム夫妻の人生を決定付けました。1914年8月、当初は数か月の滞在予定で渡米したものの、折しも同年7月28日には第一次世界大戦が始まっており、友人たちの勧めもあってコラム夫妻はニューヨークに留まることを決意するのです(これ以後、一年以上他の街に住むこともありましたが、夫妻の拠点は常にアメリカにありました)。 そんな中、コラムにとっても、アイルランドの歴史にとっても、決定的な出来事が起きます。第一次大戦で英国政府の目はヨーロッパ大陸に向いていましたから、これを好機と捉えて700年以上続いた英国支配を脱し、共和国の設立を目指す人々が、ダブリンを中心に武装蜂起を起こしたのです。これが1916年4月24日に始まった「イースター蜂起(復活祭蜂起)」です。ニューヨークの下宿屋でこの知らせを聞いたコラムは、朝食の席で新聞を前に「この人たちを知っているのですか?」と問われたとき、涙を流しながら「皆、友人ばかりです!」と答えました(317頁)。この蜂起は、その後のアイルランド独立戦争(1919年1月21日~1921年7月11日)の契機となり、そして英愛条約(1921年12月6日)によってアイルランドは自由国(Free State)として悲願の政治的独立を果たすわけですが(1922年)、この条約によってアルスター9州のうち6州が英国に留まることによってアイルランド島の南北が分断されるだけでなく、独立運動に関わった人々の間にも軋轢を生み出し、内戦(1922年6月28日~1923年5月24日)が始まってしまいます[13]。アイルランドだけでなくヨーロッパ全体の混乱によって、夫妻はついぞアイルランドに居を構えることはありませんでした(この「亡命者(exile)」の問題は、ジョイスとの関連で第4回で扱いたいと思います)。 約8年間のアメリカでの日々を経て、コラム夫妻がアイルランドに戻ったのは1923年の夏のことでした。「緑と白とオレンジの新しいアイルランドの三色旗」が港ではためくのを見たとき、ふたりは大いに感動しますが(366頁)、ダブリン市内で彼らに待ち受けていたのは、独立戦争から内戦に至る幾多の戦闘によって荒廃した街並みであり、和平条約をめぐる賛成派と反対派の間の「敵対感情」、「分断と軋轢」、そして「狂信的な愛国主義」でした(370-71頁)。ポーリックがハワイでの仕事を依頼されていたため、このときのアイルランド滞在は2か月ほどとなり、その後ロンドンとパリを尋ねますが、ふたりが目撃したのは(本書のひとつの章題にもなっている)「様変わりしたヨーロッパ」でした(パリでサラ・ベルナールの主演する演劇を見ながら、メアリーは「私たちがかつて知っていた世界は消え去りつつあるのだ」という想いを抱きます(414頁))。 ハワイ滞在後、再び数か月の間ヨーロッパで過ごした夫妻は、1925年初頭からコネティカットに移り住み、メアリーは家事に追われる日々を過ごしますが、このとき親しく付き合っていたのが詩人のエリノア・ワイリー(1885~1928)でした。お恥ずかしながら私は彼女のことを本書を読むまで全く知らなかったのですが、コラムからも幾度となく称えられるその美貌もさることながら(ぜひ画像検索をしてみてください)、まさに波瀾万丈とも言える激動の人生を送った非常に魅力的な人物です。イェイツやジョイスなどアイルランドの文学者を除けば、本書で最も紙幅が割かれているのがこのアメリカ詩人なのですが、なぜ1歳年下の彼女がコラムにとって大きな意味を持つのか――これについては、繰り返しになりますが、三神先生の「訳者あとがき」をお読みいただけたら幸いです。 1930年3月にグッゲンハイム奨学金を得たコラムは、パリに拠点を移し、文芸批評家としての初の単著、『伝統と始祖たち――近代文学を造った諸思想』[14]に取り組みました。手術や交通事故という不幸な出来事もありましたが、1937年に出版されたこの本によって、彼女の今日の文芸批評家(literary critic)としての評価が決定付けられたように思います(この点については、今回の原稿の最後に検討します)。 また、この1930年~32年までのパリ時代にコラム夫妻は多くの時間を同地に滞在していたジェイムズ・ジョイス(1882~1941)一家と過ごします。ジョイスの伝記には決定版とも言えるリチャード・エルマンのものがありますが[15]、パリ時代のジョイス(1920年7月から1940年12月まで)についてはコラムの本書の記述が多く引用されていることに私自身、本書を翻訳をしながら気づかされました。ジョイスとの関係は本連載第4回で詳しくお話しする予定ですが、エルマンの伝記が(しばしば指摘されるように)全体としては孤高の天才芸術家としてのジョイスを描くのに対し、コラムの描写は家族想いで、友人にも親切なジョイス像を提示していることが興味深いです(とはいえ、ジョイスの天才故の我儘ぶりは本書でもいくつか書き込まれておりますが)[16]。もっともその主たる原因は、ジョイスの娘ルチア(1907~1982)の統合失調症が悪化するのがまさにこの時期、1932年の夏だった、ということにも起因するでしょう。 1932年の秋以降コラム夫妻は1年ほどニースで過ごし、その後はコネティカットにしばらく住んだのち、1938年の春に再びヨーロッパに戻ります。ロンドンからダブリン(コラムにとってこのときが、翌年の1939年に亡くなるイェイツとの最後の対面でした)、パリへと移動し、このときはナチス政権下のドイツのバーデン=バーデンとミュンヘンを訪ねています。アメリカに一度戻ってから、再度1939年の夏にパリに戻るためのチケットも購入していた夫妻でしたが、「戦争が迫っている」から「アメリカから出ないことを強くお勧めします」という知人からの警告もあり(597頁)、その旅を断念します。そしてその警告の言葉通り、9月1日のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まり、本書の年代的な記述としては1940年6月のパリ陥落を報を受け、「一週間泣き続けた」コラムの姿で終わります(598頁)。 『人生と夢と』では描かれていないコラムの1940年代の出来事としては、書評や評論の仕事も継続しつつ、コロンビア大学では夫と共に近代文学についての講義を担当したり(イェール大学やミシガン大学でも教壇に立ったそうです)、“The Poetry Guild”という詩の発展を目指した団体を立ち上げるなどの活動をしたようですが、50年代は持病の関節炎と神経痛が悪化してしまったこともあり、著作活動は徐々に少なくなり、1957年にニューヨークで死去しました。現在は、1971年に没したポーリックと共に、ダブリン郊外の聖フィンタン墓地に眠っています(下記は今年の3月11日に私が撮影した写真です)。 [10] メアリーの伝記的事実については、三神先生のあとがきはもちろん、下記のサイトを参照しました。https://marycolum.com/biography/[11] アイルランド文化を考える上で、重要なのが20世紀後半まで同国は非常に保守的なカトリックの国であった、ということです。離婚が合法化されたのは1995年の国民投票によるもので、しかもその際の賛成は50.3%という僅差での結果でした。2015年には同性婚、2018年には妊娠中絶がいずれも国民投票の結果、合法化されています(いずれも賛成票は62%、66%と高く、アイルランドの急速なリベラル化が感得されます)。カトリック教会との関係については、三神先生の次のご論考をご参照ください(三神弘子「アイルランドの現在とカトリック教会」Language & literature、愛知淑徳大学大学院英文学会、第25号、2016年、1-20頁)。https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202566590080[12] コラムは次のように語っています――「実際、多くの娘たちが父親コンプレックスを持っているとしたら、私にはおじコンプレックスがあり、後に、恋に落ちる男性は皆、おじたちにどこか似ている傾向があった。私にとって、おじたちは、ハンサムで優れた男性であったばかりでなく、愉快な人たちだった」(80頁)。[13] 旧植民地において、政治的独立のあとにはほぼ例外なく内戦が起こるという歴史的事実は所謂ポストコロニアリズムが前景化した問題ですが、本稿を執筆している2025年9月においても、世界の多くの国々が極右勢力の台頭によって二極化(polarization)という名の分断が起きていることを深く心に刻みたいと思います。本来解消にすべき二極化は、富の圧倒的格差、言うなれば〈上と下〉にあるはずなのですが、排外主義は「わたしたちと奴ら(WeとThey)」という対立によって、人々の不安や恐怖を煽り、憎悪が様々な感情を飲み込んでしまいます。[14] 原題はFrom These Roots: The Ideas That Have Made Modern Literatureで、翻訳は増野正衞先生と多田稔先生の共訳で、1994年にあぽろん社から出版されています。[15] 『ジェイムズ・ジョイス伝』(上下巻で約1000頁!)は、宮田恭子先生の翻訳によって1996年にみすず書房から出版されています。[16] コラム夫妻の共著として、メアリーの死後出版されたOur Friend James Joyce (1957)という本があります。願わくは来年(現実的には再来年?)、翻訳を完成させたい、と思っています。 戦争と文芸批評家、文学の「黄金時代」 さて、改めて私なりにコラムの生涯を辿ってみて感じるのは、彼女が戦争によって翻弄された人生だった、ということです。言うまでもなく、20世紀前半を生きた人々はだれでも、二つの世界大戦に何らかの影響を受けているでしょうし、2022年2月に始まったウクライナ戦争、あるいは2023年10月以降のガザでのジェノサイドは言うに及ばず、今なお世界中で何らかの戦闘や紛争が起きていることに鑑みれば、現在の私たちにとっても、広義における戦争とは無縁ではありません。私が学部時代に最も影響を受けたT先生は、「こんなこと[文学]をやっていていいんだろうか、って思うときがありますよね。でも、そう思っていいんです。だからこそやる意味があるのですから」と仰っていたことを私自身折に触れて思い出すのですが、私が本書の翻訳に参加し始めた2015年の段階では、今日ほど「第三次世界大戦」の脅威は叫ばれてはいませんでした(もちろん、私がその現実を知覚できていなかっただけかもしれませんが)。昨年、本書の最終校正をしているとき、何度も本書を読み返し、私たちもまた戦争の時代に生きているということを強く実感しました。 コラムが最も精力的に活動していた1920年代から30年代の戦間期は、本稿の最初で書いたとおり、モダニズム芸術の最盛期でした。本連載のタイトルに付けた「世界文学の証言者」という物言いは、我ながらいささか誇大広告ならぬ誇大紹介かな、と思わなくもありませんが、それでもその「黄金時代」に彼女が故郷のアイルランドはなく、ニューヨークやロンドン、パリ、つまり世界文学の(複数の)発信地に居合わせることができたからこそ、本書に描かれるような「華麗な」交遊録[17]が可能であったということは、改めて噛み締めるべきなのでしょう。その意味でも、体調の問題もありましたが、もしコラムが1939年以降もヨーロッパで2度目のグッゲンハイム奨学金を使って研究に専念し続けることが可能だったら、とも思わずにいられません。 註:Google Mapsで作成したコラムが滞在した都市(筆者作成) [17] 北田敬子先生が2025年8月2日『図書新聞』(第3699号)で大変読み応えのある書評をしてくださいました――「この作品が最も異彩を放つのは「華麗な」と言えるほどのメアリー・コラムの交遊録である。それはアイルランドの典型的な、うら悲しくも哄笑に満ちた市井の人々の暮らしとは大いに異なる。ダブリンを離れたメアリーは、知的で独立心に溢れた女性はこのような人生も辿りえたのだという一つの夢を体現している」。https://toshoshimbun.com/product__detail?item=1754017017092x824813607633289200 結果的にコラムの唯一の学術書となった『伝統と始祖たち』(1947)は、原題のFrom These Roots: The Ideas That Have Made Modern Literature(意訳するならば『ルーツを紐解いて――近代文学を造った諸思想』となるでしょうか)が示すように、アイルランドを含むイギリス文学だけでなく、ドイツ文学とフランス文学を中心に、まさに近代の起源と核心を思想と文学作品の両方から体系的に記述した大作です[18]。上に書いた通り、大学卒業後から既にダブリンで批評の仕事をしていたコラムですが(アメリカでの仕事は1925年以降)、本当のところは(長篇)小説家になりたかった、という夢もあったようです。事実、批評家としての才能をダブリン時代、つまり彼女が20代半ばの段階で、いち早く見抜き、その道を勧めたのはイェイツでした。コラムの言葉を引いておきましょう。 もし私がダブリンに留まっていたとしたら[19]、彼の忠告[イェイツからの、文芸批評家になるべき、という忠告]にそのまま従っていたかもしれない。しかし程なく私は結婚し、そのまますぐにアメリカに来て、しばらくの間は何か書くことなど全く頭に浮かばない日々を過ごしていた。物書きというのは、とても大変で、危険な職業だと今でも思っている。生計を立てる手段としてもそうだし、上手くいったとしても、物を書くということは全身全霊で取り組むことを意味し、それは身体を疲弊させるばかりでなく、精神的にも危うい状況になる可能性があるのだ。一般論として、作家というものは、そのような試練に耐えられない限りは、不安障碍に陥り、遂には神経を病んでしまうのである。それから、作家稼業は知名度を高めることが評価とつながるものなので、恨みを買うこともありうる。批評について言えば、あらゆる類いの物書きの中でも、恐らくは最も危険なものであろう。それはとても骨の折れるものであるし、総合的な素養も求められる。読書経験だけでなく、多くの人生経験が必要なのだ。しかも高い報酬を得られるわけではないし、最高の仕事をしたとしても、それほど多くの読者を獲得できるわけではない。(495頁) 少なからず多くの作家たちの友人が神経を病み、自ら命を絶つという悲劇もいくつかを見てきた彼女だからこそその「危険」を熟知していたことでしょうし、自伝を執筆していた時点の60歳前後の彼女にとっては、己が批評家として生き抜いてきた、という自負もあったことでしょう。 しかし同時に、現代の日本に目を転じれば、文芸批評家一本で生計を立てることのできる人がどれだけいるかと思うと、少しばかり暗澹たる気持ちにもなります。編集者や翻訳家など、文芸全般に関わる人々も同じような不遇にあると言えるかもしれません(大学教員は毎月の給料が入るという点ではフリーランスの人々より遥かに恵まれている、とは思いますが、校務に忙殺されているという点では同じく苦境にあります)。コラムの天賦の才とその努力を差し引いても、やはり彼女は文学の「黄金時代」に生きていたのであり[20]、今日の世界的な人文学の凋落を前にして(恐らくそれは爆発的なAIの進歩によってもたらされるであろう便利や快適を遥に上回る、人間性の喪失という危機と表裏一体の現象なのでしょうが)、私たちもまた「私たちがかつて知っていた世界は消え去りつつあるのだ」という想いを抱かざるを得ません。 しかし、しかし、です。やはり私の脳裏には「だからこそやる意味があるのですから」という、あのT先生の声が響きます。「最高の仕事をしたとしても、それほど多くの読者を獲得できるわけではない」というコラムの言葉の背後には、自分は常に「最高の仕事」をしようと試みていた、という矜持が垣間見えます。その顰に倣って(というのも憚られるくらい浅学菲才で怠慢な私ですが)仮に消え去りつつあるのだとしても、かつてあった黄金時代を言祝ぎ、その遺産を伝えるのが、文学研究者の使命であるように、(今の)私には思えてならないのです。 最後に次回予告、として。彼女の「華麗な」交遊録は、生まれ故郷のスライゴーや寄宿学校のあったモナハン、すなわち田舎から既に始まっているようにも思えます。次回の連載では『人生と夢と』の第1章から第8章に描かれるアイルランドの「田舎の暮らし」に着目し、本書の魅力を少しでも皆さんと共有できたら、と思います。 [18] コラムの再評価をいち早く行ったPatricia A. Rimoは、同書について「18世紀から20世紀に至る西洋文学を形成した主要な批評概念の起源を辿った作品で、比較文学批評の最初期の好例のひとつであり、現在でも比較文学のいくつかのコースではシラバスに記載されている」と述べています(“Mollie Colum and Her Circle,” Irish Literary Supplement, vol.4, no.2, 1985, p.27)。[19] 「ダブリンに留まっていたとしたら」という感慨は事実、本書の冒頭でも語られています――「私は一生をこの国で送ったかもしれなかった。海のそばで、長い山並の麓で、小さな湖の畔で、この国特有の円形土砦や廃墟の傍らで、古い習慣や昔話に囲まれて。しかし、家族の中で起こった突然の死が、私の住む場所と未来を変えてしまった」(24-25頁)。[20] コラム自身、世界大戦以前の日々が「文学」の「黄金時代」であったことを認識しています。本書の最終章には以下のような記述があります――「私が成長してから、世界で起こった主な出来事は、戦争と破壊ばかりだった。目に入ってくるありとあらゆるものが破壊された。一九一四年以前には、私が知っている世界で、最も重要だと見なされていたのは文学だった。私たちは象牙の塔に住んでいたのだと思う。有名な作家が死ぬと、新聞各紙は、追悼の言葉と作家の人生や作品について何ページも費やしたものだった。今では、紙面の一段か、その半分が一人の芸術家や学者について割かれるならまだよい方だと言わねばならない。一九一四年以降に成長した人々は、この世紀の初めには、ヨーロッパの若者たちの前に静謐、幸福、可能性が広がっていたことを理解できないだろう」(599頁)。 本稿の最初で紹介した『ミッドナイト・イン・パリ』における「黄金時代」に対するウディ・アレンの解釈も、もちろん妥当なものであるとは思いますが、過去に憧れ、失われた時を取り戻したい、という強烈な想いもまた、(その不可能性と逆説性故に)私たちが前進するために時として必要なことではないかとも思うのです(映画のネタバレを避けるため、曖昧な書き方になってしまい、恐縮です)。 記事を書いた人:小林広直(こばやし ひろなお)東洋学園大学グローバル・コミュニケーション学部准教授。埼玉県富士見市出身。早稲田大学第一文学部を卒業後、同大学院修士課程、University College Dublin修士課程(Anglo-Irish Literature and Drama)、早稲田大学文学研究科博士課程修了。博士(英文学)。早稲田大学文学学術院英文学コース助手、日本学術振興会特別研究員PD、東洋学園大学専任講師を経て、2021年より現職。共著に『ジョイスの罠――『ダブリナーズ』に嵌る方法』、『ジョイスの迷宮――『若き日の芸術家の肖像』に嵌る方法』、『ジョイスの挑戦――『ユリシーズ』に嵌る方法』(以上、言叢社)、『幻想と怪奇の英文学4』(春風社)など。現在、『ダブリナーズ』全15篇を3年かけて読破するオンライン読書会Deep Dubliners(https://www.stephens-workshop.com/deep-dubliners/)を主催している。