2025.09.19 著者のコラム 世界文学の証言者、メアリー・コラム:第3回 大義のために闘うイェイツと、運命の出会いとしての夢 著者 小林広直 目次はじめに文芸復興の担い手たち闘うイェイツイェイツとの運命的な出会い はじめに 今回はふざけず(?)、いきなりコラムさんから――『人生と夢と』の第十章「国の目覚め」からの引用をまずはご覧いただきたいと思います。 アイルランドの知性のありようは、私が知る限り、どの国よりも多岐にわたっている。国民のトップ一〇パーセントに位置づけられる人々は、知性の面でも情緒の面でも傑出しているため、どの国の人々と比べても見劣りすることはなく、充分に渡り合っていけると思う。その対極にいる人々の愚かさ、愚鈍さについていえば、やはり、どこと比べても見劣りすることはなく、充分に渡り合っていけると思う。こうした下のレベルについて酷評するのは、誰よりもアイルランド人自身だった。(158-59頁、以下太字の強調はすべて引用者) 本書を読む〈愉しみ〉の一つは、上記のようなコラムさんの〈毒舌〉を味わうことにあると思うのですが、この引用部で注目すべきは以下の点です。つまり、私たちは得てして国家と国民を同等に扱い、○○人は~~だと一括りに語りがちですし、また、国や地域のサイズの差(面積だけでなく、最も重要なファクターとして人口があると思いますが)を顧みず、ある国はある国よりも優れている(または劣っている)と考えがちです。しかし、国というのは結局のところ個々人の集合ですから、「傑出し」た人や「愚鈍」な人のどちらも(恐らくは)ほぼ一定の比率でどんな場所にもいるわけですよね[1]。この原稿を書いている2025年9月、私は自分の帰属する国家に対してかなり絶望的な想いを抱いていますが(まあ、ある意味では、大学時代の2000年代前半からずっとそうなのではありますが)、それでも日本人全員がダメなわけでない、ということを折に触れて自分に言い聞かせています(きっと現在のアメリカやイスラエルに住む〈まっとうな〉人もそうだと信じています)。 コラムの〈毒舌〉が単なる悪口に留まらないのは(もちろん、悪口は悪口で結構楽しいわけですが)、その〈愚鈍〉さの背景にある社会的要因を常に見逃さず、的確に指摘する、ある意味では文芸批評家としての公正さに依るものなのでしょう。上記の引用に続いて、「人々の愚かさ」の原因を「学校教育やカトリック教会を違法と位置づけた刑罰法[2]の産物」、あるいは「いつでも追い立てられるという不安を感じ続けざるを得なかった厳しい土地保有システムの結果」、つまり、アイルランドが大英帝国の植民地であったが故の社会的問題であると指摘しつつ、コラムは次のように書いています。 いわゆるアイルランドの文芸復興に対し、地方に住む人々の一部があまり興味を示さなかったのも、もっともだと言える。そこでは貧困、無知、恨み、欲求不満などが背後にあって、知性は錆びつき、時には精神が少々錯乱状態に陥っていたと言うこともできるだろう。彼らは生活を維持するのがやっとで、芸術的な興味を持ち続けるようなエネルギーの余裕はなかったし、首都ダブリンで盛んに進められている、詩を書いたり、芝居を書いたり、絵を描いたりする文化運動に、わざわざ関心を向けることはなかったのである。文化運動を推進していた人々の本当の情熱は自由を目指すこと、つまり、自分の土地、自分の国を我が物にすることにあり、この情熱はあらゆる新しい運動が鼓舞し続けたものである。産み出されたエネルギーは国中に広まり、そうしたエネルギーを生み出した運動には無関心で無知だった人々の間ですら受け入れられた。こうした運動の背後には、偉大な人物、真の指導者がいた。彼らは、才能に恵まれ、愛国心に燃えていたばかりでなく、強い心の持ち主で、私心のない、揺るぎない勇気の持ち主だった。(159頁) 「生活費を稼ぐ」(というタイトルの章も本作にはありますが)のがやっと、という状態では私たちは芸術や政治について考えたり、語ったりすることはできません[3]。コラム自身、アメリカに移り住んだばかりの頃はそのような状態にあり[4]、あるときは「家事に追われる毎日」(446頁)も経験していたようなので、上記のような冷静な分析ができたのではないか、と思います[5]。 今回紹介する「アイルランド文芸復興」は、まさにアイルランドの文学における「黄金時代」であるわけですが、再びしばしば陥りがちなものの見方を指摘しておくならば、19世紀末から20世紀初頭のこの文化運動が盛んだった時代において、ついつい私たちはその時代の誰もが皆それを支持していたように錯覚してしまいがちです。しかし前回の連載で紹介したコラムの「物書きのおじ」がまさにそうであるように、英国の支配に批判的でありながら、新しい世代の動向(一言で言えば、文化ナショナリズムの興隆、となりましょうか)に対しても同様に批判的であるという人が、当時かなりの数いたわけです。今回は特にW・B・イェイツを巡る記述を紹介しますが、彼にとっての〈敵〉は英国である以上に、同時代のダブリンの人々だったのではないか、という気さえします。しかしまさにイェイツこそ、「才能に恵まれ、愛国心に燃えていたばかりでなく、強い心の持ち主で、私心のない、揺るぎない勇気の持ち主」であったのでしょう。アイルランド西部の〈田舎〉から、大学に通うべく〈都会〉のダブリンにやって来たコラムが、今まさにその最盛期にあった文芸復興をどのように目撃したか、その〈証言〉の意義を再考したいと思います。 [1] ただし、私自身、このような考え方に馴染んでいるのは、下記の一節を中学時代に読んだことが影響していると思わなくもありません(当時の私は、そこまで官僚はダメな人たちではないんじゃない!?となんとなく思っていましたが…)。 最初は永沢さんが外務省試験の話をした。受験者の殆んどは底なし沼に放 り込んでやりたいようなゴミだが、まあ中には何人かまともなのもいたな と彼は言った。その比率は一般社会の比率と比べて低いのか高いのかと僕 は質問してみた。 「同じだよ、もちろん」と永沢さんはあたり前じゃないかという顔で言っ た。「そういうのってどこでも同じなんだよ。一定不変なんだ」(村上 春樹『ノルウェイの森』(下)1987年、講談社文庫、2004年、116 頁)。[2] 本書の註から引用しておきます。刑罰法 十七世紀末からカトリック教徒(英国国教徒でない長老派教会の信者も含む)に対して課せられた差別的な法制度。職業選択の自由、政治参加の自由、財産や武器、土地の所有などが制限された。一七九一年から行われた様々な法改正を経て、一八二九年のカトリック解放法により、ほとんどの差別が撤廃された。(608頁)[3] 「もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ」(村上春樹『風の歌を聴け』1979年、講談社文庫、1982年、12-13頁)。[4] 第21章冒頭には以下のような記述があります――「アメリカに来てからほぼ一年が経とうとしていた一九一五年の秋、私たちは再びニューヨークに戻っていた。そして、ダブリンはますます遠くなっていた。私たちには問題が山積みだったが、一番大きな問題は、どうやって生計を立てていくか、つまり、文筆によって生計を立てるにはどうすればいいかということだった」(310頁)。[5] 再び『ノルウェイの森』から引用しておきます――「彼[永沢さん]は煙草を吸い、僕は緑の父親のことを考えた。そして緑の父親はTVでスペイン語の勉強を始めようなんて思いつきもしなかったろうと思った。努力と労働の違いがどこにあるかなんて考えもしなかったろう。そんなことを考えるには彼はたぶん忙しすぎたのだ。仕事も忙しかったし、福島まで家出した娘を連れ戻しにも行かねばならなかった」(前掲書、114頁)。 文芸復興の担い手たち 本書、メアリー・コラム『人生と夢と』(多田稔監訳、三神弘子・小林広直訳、幻戯書房、2025年)の第8章から第16章までの目次は下記のとおりです。 第8章 大学に進学する第9章 初期のアビー・シアター第10章 国の目覚め第11章 アビー・シアターのレディ・グレゴリー第12章 私の知っているイェイツ第13章 「ホメロスが歌った女性」第14章 パトリック・ピアスと共に働く第15章 A・E、シガーソン博士、セアラ・パーサー第16章 結婚、そしてサー・ロジャー・ケイスメントとW・S・ブラント これらの章は、本書の記述に従うならば、彼女が寄宿学校を卒業して〈上京〉した18歳、つまり1902年から、ポーリック・コラム(1881~1972)と結婚した1912年までの出来事を扱っていますが、興味深いのは第8章から第10章で彼女の大学時代とリンクするように文芸復興全般の歴史が語られ(その文化運動の中心であるアビー・シアターが開場したのは1904年のことでした)、その後の章はタイトルに挙げられている人物を個別に描く、という方法が採られているということです。前回の本エッセイで確認したように、本書は時系列に沿いつつもテーマ毎に読むことができる、という点で「歴史的資料」としての価値を見いだすことができそうです(第1章から第8章でも時系列より主題が優先されていました)。 第11章ではまずアビー・シアター最大の功労者であるレディ・グレゴリー(1852~1932)が、そして第12章では本稿でのちに詳しく見るW・B・イェイツ(1865~1939)が描かれますが、この2人の記述の合間で文芸復興の最重要人物の一人、J・M・シング(1871~1909)についても知ることができます(Irish Revivalism、あるいはIrish Renaissanceに関して最も頻繁に言及されるのはこの3人でしょう)[6]。続く第13章はイェイツの詩のタイトルがそのまま引用されていますが、これは彼のミューズであった革命家(であり、彼の演劇に出演する女優でもあった)モード・ゴン(1866~1953)のことです。第14章は革命家にして文学者でもあったパトリック・ピアス(1879~1916)についての章ですが、彼はコラムが大学卒業後働いていた聖イタ校を設立した教育者でもありました。この章があることで、大学時代からダブリンでの教員時代が時系列的に沿ってスムーズに語られているのは自伝という構成的に非常に見事と言えるでしょう。ピアスは1916年没とあるように、イースター蜂起における最大の指導者でした(1914年の夏にアメリカに渡ったコラムは、彼の死をニューヨークの下宿屋(第21章)で知ることとなります)。 次の第15章では、A・Eことジョージ・ラッセル(1867~1935)、ジョージ・シガーソン(1836~1925)、セアラ・パーサー(1848~1943)の3人が、彼女のダブリン時代で「一緒に記憶されている」(227頁)人々として、この章のそれぞれの節で語られています。神智学者でもあった文学者のA・Eは文芸復興運動の重要人物の一人としばしば称されますが、一方シガーソンとパーサーは当時の文化運動に関わってこそいましたが一般的にはリヴァイヴァリストと見なされることの少ない人々です。ただし、コラムは彼らを、「自分より半世紀以上も年上だったにもかかわらず、非常に親しみを感じ、同志だと感じることができた、古き良きダブリンを絵に描いたような二人の人物」と書いており(218頁)[7]、シガーソンとイェイツの激しい口喧嘩(?)の様子も描かれていますので、ここに世代間対立を読み込むこともできるでしょうし、文芸復興が若く、「新しい世代」[8]によるものであったということが改めて確認できます。 第16章では、結婚を巡ってポーリックともう一人の求婚者、トマス・マクドナー(1878~1916)[9]について、そして新婚旅行先のロンドンで出会った、サー・ロジャー・ケイスメント(1864~1916)とW・S・ブラント(1840~1922)についての記述があります。ケイスメントとブラントは共にアイルランドの独立を支持する人々でした。当時のケイスメントは「南米やアフリカ各地におけるゴム農園でなされていた、現地人の労働者に対する非道な行為を明るみにした貢献者の一人で、その名声の絶頂期に」あり、「自分の人生をアイルランドの独立に捧げるために、イギリス領事官の仕事から身を引こうとしていたころ」(236-37頁)でしたが、やがてイースター蜂起を支援したために反逆罪で処刑されてしまいます。その一方、ブラントはイギリス人の「貴族」であり、「紳士」、アイルランドのみならずアラブやアフリカについても反帝国主義を標榜していました。本稿の最初で書いたように、私たちはアイルランドVSイギリスという国家を前提とした二項図式で考えがちですが、改めて考えてみれば極めて自明なように、イギリスにもアイルランドの独立を支持する人は多数いたのだということを思い知らされます。 闘うイェイツ 知識不足と言われてしまえばそこまでなのですが、私自身本書を読むことでイェイツのイメージはかなり好意的なものに変わりました。彼の詩をお読みになったことがある方であれば、お分かりいただけると思うのですが、確かに言葉は抜群にカッコいいけれど、象徴的な表現が鏤められるその難解な詩は、断片的に私が知っていた詩人の性格――本書でも言及されている「自意識過剰」や「上流かぶれ」、「優越意識」(178頁)――と相まって、どうにも上から目線な感じが絶えず付き纏っていたのです。 しかし、この点についてコラムは「仮面」という用語で説明をしてくれています。 イェイツが自意識過剰であるように見えたのは、彼は普通の人々と同席しても心を許さなかったことに加え、私たちのようなごく普通の人間がどのような生活をしているのか知らず、友人のタイプも限られていたからである。とはいえ、強固な人格を持った人々にとっても、エネルギーや関心には限界があり、何らかの仮面を被っていないと、たとえ傑出した人々でも、世間や人々の要請に圧倒され、エネルギーを奪い取られてしまうことになるのだろう。(178頁)[10] 事実イェイツを巡る第12章で繰り返し描かれるのは、彼が様々な陣営から攻撃をされ、それに対し反論を行う様子です。中でも「いわゆる「プレイボーイ騒動」[11]として知られる事件」では「常日頃、彼を支持していた人々の多くが攻撃に回った」、という点で一層詩人にとっては辛いものだったことでしょう。ここでイェイツがシングのためにどのように奮闘したかは本書の記述をお読みいただくとして、コラムは次のように詩人がいかに友人想いであったかということを書いています――「イェイツは、ほとんど、いや、決して自分自身の劇作品のために闘おうとはしなかったが、友人のためには闘い続けた。彼はすばらしい闘士だった。皮肉な調子を交えながら激しく、また疲れを見せることなく闘った」(185頁)[12]。「いや、」と言い直しているところが特にいいのですが、同時に言及しておくべきは、(第10章から第16章の間には全般的に見られることなのですが)何度も彼を評する際に「大義」という言葉をコラムが使っていることです。 彼の情熱は大義に向けられていた。それは、芸術に対する大義であり、アイルランドの国民運動に対する大義であり、愛と友情に関する大義だった。イェイツに優越意識が見られるとしたら、それはより高度な秩序と美に心血を注ぐ、優れた人間のみが持つ大義と結びついていた。彼は秩序を崇拝したが、その結果、後年、ヨーロッパにおけるファシスト運動をロマンティックなものだと見なすようになった[13]。しかし、全く奇妙なことではあるが、彼は鍛錬と自己制御を同じものだとは見なしていなかった。「芸術は、自らを委ねるものにはすべてを与えるが、自己規制を行う者には何ものも与えない」とイェイツが言っているのを聞いたことがある。ダブリンで人々に詩や文学を理解させようと彼が懸命に努力したのは、芸術やアイルランドを大事に思っていたからに他ほかならない。(179頁) 確かに、文芸復興運動は武器こそ使わないものの、英国の植民地を脱してアイルランド自身の文化を復活させようとする「大義」を掲げた闘いであり、ある意味では、英国やカトリック教会の支配を甘受してしまっている人々――ジョイスが『ダブリナーズ』で「麻痺」と呼んだ、社会的無気力と停滞――に対する闘争でもありました。それゆえに起こる大衆からの反発を防ぐためにイェイツが仮面を被らざるを得なかったこと――もしかするとそれは今日のSNSにおいて私たち自身が一種の〈スルー〉する能力を身に付けなければならないことと無関係ではないかもしれません。もちろん政治家を始めとする公人に対する正当な批判は必要ですし、権力者は往々にして批判を誹謗中傷と意図的に読み替え、言論規制をかけてくる可能性があることにも留意をしなければなりません。しかし批判においては言葉遣いが重要である、というリテラシーが機能していないのがSNSに限らず、今日の言論空間であることは否定できませんので、「仮面」を被ることでネット上の自己と生身の自分を切り分けておく、という一種の処世術をイェイツから学ぶ事もできる気がします。 いずれにせよ、イェイツが自分ではなく、友人のため、さらにはアイルランドという国家のために闘ったという事実は、私自身今思えばもっとちゃんとわかっていなければならなかったことだったと思いますが、お恥ずかしながら本書を読むことで文字通り痛感した事実でした。同時に、上で書いたグレゴリーやゴンなどもまた、自ら信じた「大義」のために闘っていたということは改めて噛み締めるべきことであるように思いますし、それがとりわけ政治においてはしばしば暴力的な手段に訴える、ということになってしまうというテロリズムと(独立)革命の関係をどう理解すべきか、という問題にも繋がるでしょう。 [6] 興味深いのはこれらの章で語られるジョージ・ムア(1852~1933)に対するコラムの記述が非常に手厳しいということです(本書212-13頁で描かれるシングの書評を巡る個人的な恨みも関係しているでしょうか)。当時のムアは「重要な人物」(183頁)として、「過大な評価」(209頁)を受けていた、とその真価をコラムは見抜いていたようにも思われます(尤も今日彼もコラムと同様に再評価されつつありますが)。[7] とりわけセアラ・パーサーの「宝石ケース」を巡るエピソード(225-26頁)は捧腹絶倒とまではいかないまでもとても愉快です。[8] 1923年にアイルランドに帰郷した際(第25章)、「物書きのおじ」と再会したコラムは彼について下記のように語っています。ポストコロニアリズムが問題化した文化的支配の問題、あるいは政治的独立以後も経済的かつ文化的支配は続く(その支配から逃れることは事実上不可能)という問題を端的に示した好例と言えるでしょう。 彼の知る文学、とりわけアイルランド文学は、イェイツやアビー・シアタ ーが登場する前のもので、イェイツとは同時代人であるにもかかわらず、 彼はイェイツが書くものをよいと思わず、ジョイスの作品に至っては耐え がたく感じたようだった。もし私が具体的にイェイツの詩を取り上げ、そ の意味を説明する機会があったなら、昔のように六ペンスか新しい帽子を 送ってくれたのかもしれない。近代のアイルランドには、彼がしがみつい ている古い世代の嗜好を満たす余地はほとんどなかったのであるが、彼は 私や私の仲間たちの趣味を一切認めてくれなかった。怒りを覚えずに新し い世代の文学を語ることがおじにはできなかったのである。おじは自覚し ていなかったが、彼が認めていたアイルランド文学――ウィリアム・カー ルトン、ジェラルド・グリフィン、オーブリー・トマス・ド・ヴィア、チ ャールズ・レヴァー、サミュエル・ラヴァー、そして彼が愛して止まなか ったトマス・ムア――は、英国人の好みに合わせた作家たちで、中でもム アの唄はロンドンの応接間に集まる人々のために書かれたものだった。 (390-81頁)今回に註で村上春樹を何度も引用しましたが、日本文学でも彼の登場(1979年)を以て現代文学とする傾向があるように思いますし、日本文学の好みについても私の友人の数名は、村上以後(W村上以後、と言った方がいいでしょうか)は全く読まない、と言っていたりするので、この辺の〈世代〉の問題は個人的に大変興味深いです。[9] ただし本書では彼の名前は伏せられていますので、コラムなりに配慮があったことは付言しておく必要があります。同時に、マクドナーがメアリーに対し強い恋愛感情があったこと、そして、彼もまたイースター蜂起で処刑されたことを考えると、アメリカに出発する前年、1913年の大晦日を描いた、第17章の最後の部分の記述が「予言」的である以上に、彼女が一種の「サヴァイヴァーズ・ギルト(survivor’s guilt)」を感じていたことが分かります(この点は三神弘子先生も「あとがき」で触れています)。 クリスマスにはアイルランドに戻ってくると思っていた私たちに、パーテ ィーに参加していたトマス・マクドナーは、「君たちは帰ってこないよ。 そんな風に考えてないとは思うけれど、君たちはアメリカで暮らすことに なると思うよ」と、まるで予言でもするように言った。後に彼は、パトリ ック・ピアスとともに、イギリス政府に対する反逆罪で処刑されることと なる。[中略]誰かが、あまり真面目ではない調子で、「僕たち二人(そ の人物とトマス・マクドナー)から、永遠のお別れを。僕たちはアイルラ ンドの自由のために戦い、そのために殺されるんだから」と言った。 (258頁)[10] 記述の順番こそ逆転していますが、この「仮面」についてコラムが学ぶきっかけとなったのはジェイムズ・スティーヴンズからのようです――「イェイツは、礼儀作法を知らないという印象を与えたばかりでなく、無神経だと思われることがよくあった。ジェイムズ・スティーヴンズが私に語ってくれたことによると、イェイツは、この無神経という仮面を意図的に被ろうとしたところがあって、それによって世界から自分を守り、しばしば彼に投げつけられる礫つぶてや槍から自分を守っていたということである」(179頁)。[11] 本書の註を引用しておきます。 プレイボーイ騒動 一九〇七年、シングの『西の国のプレイボーイ』の初 演時に、女性の下着、シュミーズを指す「シフト(shift)」という劇中の 言葉に観客が過剰反応した結果、起きた暴動。この騒動は、単に「シフ ト」という表現が観客の感情を逆なでしたというよりは、『海へ駆りゆく 者たち』や『谷間の陰』以来のシングの作品に対する不信感、先入観から 生じたもので、暴動を起こした観客たちは、あらかじめジャガイモや卵を 用意して劇場に向かったと言われている。(626頁)[12] この一種の利他性は本章の最後でも繰り返されています――「ダブリンの人々はよく言ったものだ。「もしもイェイツが友人だったら、自分自身で敵と闘う必要はない。イェイツが代わりに闘ってくれる」と』(191頁)。[13] ここで注意すべきはファシズムと言うと私たちはすぐにホロコーストを想起してしまいますが、民族主義の延長線上にあるものとして捉える必要がある、ということです(だからと言ってこの点はイェイツ研究でも絶えず批判的に論じられている詩人の側面ですが)。本書でもムッソリーニ政権について下記のようにコラムは書いています――「当時、フランス人の多くが、そしてニースに住むほとんどの人々が、ムッソリーニに共感していた。その当時はまだ、戦争は遠い時代だったのである。ムッソリーニはイタリア人が喜びそうなあらゆる政策を実践した。多くの人に向けて雇用を生み出し、オペラ・カンパニーを僻地にまで送り、道路沿いに花壇を設け、湿地を干拓するといったようなことの数々である。外国人を感心させたのは、列車が時刻通りに運行されていることだった。実際、エチオピアに侵攻するまでは、当時のムッソリーニには世界中で非常に多くの支持者がいたのである」(544-45頁)。 イェイツとの運命的な出会い さて、第8章、コラムが初めて〈上京〉した時の描写を見てみましょう。列車に乗ってダブリンに到着したメアリーは、「屋根なしの馬車に乗って」「これから住む予定の大学寮まで、ダブリンの北から南へと、有名な通りを次々と進んでい」く途中で、オコンネル橋を歩くサンドウィッチマンに出くわします。 広告板には、オレンジ色の下地に大きな文字で、広告が書かれていたが、それに心を奪われた私は、思わず馬車から落ちそうになったほどだった。アイルランド演劇―一週間限り。J・M・シング『海へ駆りゆく者たち』、W・B・イェイツ『キャスリーン・ニ・フーリハン』、レディ・グレゴリー『噂の広まり』とあった。列車で私の道連れになった青年が、彼が愛してやまない広場や通りに一歩踏み出していたのだとしたら、私はまさに、アイルランドの文芸復興運動に巡り合ったのである。[中略]イェイツ、シング……彼らが、まさにこの時間、同じ通りを歩いているかもしれないのだ。(125頁) 私自身、三神弘子先生の「訳者あとがき」を読んでこの場面の巧妙な仕掛け、〈演出〉に気づかされたのですが、実はこの出来事は現実に起きたことではなく、フィクションであるようなのです。なぜなら、ここで言及されるシングとグレゴリーの作品はどちらも1904年の作品であるため、彼女がダブリンに到着したとされる1902年の夏にはまだ存在していない――つまり、コラムは「文芸復興運動を象徴する三つの劇作品の広告に巡りあったことに触発され、新しい〈私〉が誕生する場面の劇的な〈演出〉」(688頁)をしている、というわけです。 しかし、この〈演出〉によって、私たち読者はまさに「生きているアイルランド作家たちの本物の演劇を見ることができるという期待で私は有頂天になり、人生における奇跡がまさに私の眼の前で展開しようとしているのだと感じた」(125頁)、18歳の少女の興奮と感動を追体験することができます。コラムは次のようにも書いています。 イェイツやシング、レディ・グレゴリーの劇はすべて新しく、しかも自分の国で生み出されたものだった。それは、まさに私たち、いや、私に向かって発せられた生の声だった。特に、イェイツは私に向かって語りかけているように感じられた。それらはすべてアイルランドについての物語で、アイルランドの人々に向かって語りかけていた。 「私に向かって発せられた声」というのは一種の〈幻聴〉です。しかし、このような幸福な誤解こそが私たちが、芸術や文化に求めているもののようにも思えます。事実、子ども時代の章でもイェイツの名前は何度も言及されていますし、イェイツの死後、第36章でコラムは次のように書くことで、その死を再度追悼しているようにも思えます。 イェイツを知らないときの自分、彼の詩を知らないときの自分を思い出すことはできない。子どもの頃には、イェイツの比較的分かりやすい詩を諳んじることができるほどよく読んだ。彼は、私が実際に知り合った最初の詩人であり、最初の有名人だった。そして、寄宿学校で過ごしていた十代始めの頃、私は彼の詩と演劇によって、眠りから、まさにそれ全体が夢だと言える子ども時代から覚醒したのである。(565頁) 夢という言葉が象徴的かつ多義的に使われています。この引用部は「子ども時代」の寄宿学校という閉じられた世界にいた頃、その夢のような幸福ではあるものの、一種の非現実的な世界から、イェイツの文学作品が自分を広い世界へと連れ出してくれた、という意味でしょう。しかし本書のタイトルでもある夢は、人生と対置されることで、眠りの中の夢というよりはむしろ、目標や希望、大志という意味での夢、つまり一種の現実性をも含み込みます。第一回の本連載で書いたように、自分の好きな文学作品の作者と実際に会って話してみたいという夢を、コラムは実際にダブリンで叶えました。 そのように考えると以下のイェイツの詩句から取られていると思われる本書のタイトルにはコラムなりの〈反論〉があるのかもしれません。 ホメロスが歌った女性人生も文学も英雄の夢にすぎないのか(154頁)A woman Homer sungTill life and letters seemBut an heroic dream.[14] モード・ゴンについてのこの詩は、実際その詩人の恋が成就しなかったという意味でも夢のように儚いものでした。しかし、人生も文学も英雄的な夢として実現させたのが、コラムの人生です。私たちが経験的に知っているように、残念ながら夢の大半は叶いませんが、私たちは時にそれが現実のものとなることもあると知っています。夢は人生ではないが、夢が人生となることもある――小説家という夢こそ叶いませんでしたが(しかも、第一回の本エッセイで引用しましたが、ある意味では非常に皮肉なことに、コラムの文芸批評家としての才能をいち早く見抜いたのは他ならぬイェイツでした)、コラムにとっての人生最大の夢が叶った人生の瞬間こそ、このダブリンの第一日目だったのかもしれません(改めて本書が「寄宿学校での最初の日」から始まっていることの意義が想起されます)。 下種の勘繰りと言われてしまえばそこまでですが、コラムはイェイツに対し恋愛感情を抱かなかったのかな、と思わなくもありません。事実イェイツが1916年、51歳で結婚したジョージ・ハイド・リース(1892~1968)はコラムより年下でした。本書をお読みになった方であれば、ダブリンの国立図書館で初めてイェイツの姿を目撃したコラムが彼の後をつけてゆく様子は忘れがたいシーンだと思います。 私はカウンターの周りをうろうろしながら、詩人を観察していた。私が知る若者たちは、私を含め皆、彼の作品に夢中になっていたのである。当時イェイツは、四十歳前後だったはずであるが、二十代後半にしか見えなかった。その黒髪、小麦色に日焼けした顔色、一風変わった瞳、背の高さなどから、彼が普通の世界に属しているとは思えなかった。彼の偉大な知性、想像力、情緒的な力は、その顔に表れているだけでなく、その歩きぶり、その声、そして、黒の鉛筆をもてあそんでいる美しい手に表れていた。そう、その存在そのものに。(137-38頁) この後コラムは、それが別に極々当然のことであるかのように、彼が投げ捨てた吸い殻を「拾い上げ、何年もの間、古いかぎ煙草入れにしまっておいた。私の英雄崇拝は、それほど強いものだったのである。[中略]この文章を書いている現在に至るまでの長い年月の間に、様々な領域で世界に影響力を与えた多くの人物に出会ってきたが、私は、今なお、自分が知っている人物の中でイェイツが最も偉大な人物だと思っている。その偉大さは、本当に傑出していたのだ」(138頁)と書いています。やはり、その偉大さは彼女にとって「崇拝」の対象であり、「普通の世界」の住人とは見なせなかったのかもしれません[15]。本書で彼女が最後に彼について語るときの記述は以下の通りです――「イェイツは私の人生において、夢ではなく現実に存在した人物であり、私に多大な影響を与えた人物を二人あげるとするならば、間違いなくその一人である」(566-67頁)。では、残りのもう一人は……?と私たち読者は気にかかる箇所ですが、コラムはその存在を明らかにすることはありません。本書で一切触れられることのないコラムの秘められた恋は、三神先生の「あとがき」をお読みいただくとわかるのですが(連載第1回からしつこくてごめんなさい)、もし彼女がここで〈彼〉のことを想起していたのであれば……そのあり得たかもしれない人生は実現しなかった夢として、つまり夢として現実に存在しなかった人生にコラムは想いを馳せているような気がしてならないのです。 最後に次回予告、です。『人生と夢と』を①交遊録②旅行記③歴史的資料の3点から「世界文学の証言者」として読むという壮大な(?)企画である本連載も次回でいよいよ最終回です。「交友録」としてはやはり、アイルランド文学の巨匠としてイェイツと並び称されるジェイムズ・ジョイスとの関わりが興味深いです。「世界文学」という観点も含めつつ、本書後半のハイライトである1930年代初頭のパリ時代を見てゆきたいと思います。 [14] Mary Colum. Life and the Dream, Doubleday & Company, 1947, p.112.[15] 「さらにもう少し親しくなると、イェイツは、私を理想的な若いニヒリストと呼ぶようになった」とコラムは書きますが、この「理想的な若いニヒリスト」という表現は、彼女が詩人と最後に会って話をしたときにも繰り返されています(第36章)――「入って来たイェイツは、片眼に黒い眼帯をしていた。私がそばに近寄ろうとすると、彼は私をしげしげと眺め、「お互いにずいぶん変わってしまったね」と言った。そして、「昔の君は、私にとって、理想的な若いニヒリストだった」と、彼の口癖を繰り返した」(562頁)。 記事を書いた人:小林広直(こばやし ひろなお)東洋学園大学グローバル・コミュニケーション学部准教授。埼玉県富士見市出身。早稲田大学第一文学部を卒業後、同大学院修士課程、University College Dublin修士課程(Anglo-Irish Literature and Drama)、早稲田大学文学研究科博士課程修了。博士(英文学)。早稲田大学文学学術院英文学コース助手、日本学術振興会特別研究員PD、東洋学園大学専任講師を経て、2021年より現職。共著に『ジョイスの罠――『ダブリナーズ』に嵌る方法』、『ジョイスの迷宮――『若き日の芸術家の肖像』に嵌る方法』、『ジョイスの挑戦――『ユリシーズ』に嵌る方法』(以上、言叢社)、『幻想と怪奇の英文学4』(春風社)など。現在、『ダブリナーズ』全15篇を3年かけて読破するオンライン読書会Deep Dubliners(https://www.stephens-workshop.com/deep-dubliners/)を主催している。