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  • 著者のコラム

映画字幕の舞台裏はこんなに楽しい!

著者 吉田 泉(仏文学者)

第3回

歌詞を変えて歌う?

古い話で恐縮ですが、かつて歌手の山口百恵さんが彼女の大ヒット曲「プレイバックPart2」をNHKで歌うときは、その歌詞の中で本来「真っ赤なポルシェ」となっているところを「真っ赤なクルマ」と変えて歌っていました。それを初めて聞いた時、当時の多くのファンは仰天したのではないでしょうか。

私は逆に、にんまりしてしまいました。ああ、やっぱりここにも同じ苦労があるんだなと。つまりNHKでは商品名は放送法によって使ってはならないと定められているのです(特定の商品の宣伝になりますから)。映画字幕でも同じで、どんな商品名も絶対に使ってはなりません。たとえば「コーラ」などももってのほかで、必ず「清涼飲料水」とします。3文字から5文字に増えるのは大変に困りますが、やむをえません。ある芸術家も「制限において技術は進歩する」と言っています。そしてチェックするのは担当ディレクター氏の大事な役割です。

マカロンタワー

クルマが登場すると面倒?

一度こういうことがありました。ヌーヴェル・ヴァーグの金字塔であるフランス映画「死刑台のエレベーター」(1958年ルイ・マル監督)の字幕をやっていた時、やはりクルマの名前が出てきました。現在でも幻の名車といわれるベンツのメルセデス300SLが高速道路で若者の乗っているクルマを後ろから爆音とともに追い越すシーンがあります。

後ろに気付いた若者は感動して「メルセデスの300SLだ」と叫びます。憧れのスポーツカーなのです。商品名はダメということでしたが、私はどうしても雰囲気を伝えたくて「メルセデス」(フランスではベンツのこと)の語がなければ多少は商品名がわかりにくくなるかと思い、「300SLだ」という字幕はどうかと提案しました。当時のディレクター氏はとても話のわかる人でしたが、このときばかりは、「とんでもない」と却下です。

私もこの時はけっこう粘ったので、ディレクター氏も知恵を絞ってくれました。「高級車だ」ではどうかと言われました。私はこれもどうも気に入らなかったので、もう一度粘りました。ならばせめて「すげえクルマだ」では?これに決まりました。

メイドさんにもひと苦労

もう一つの障害は差別用語です。当時私が担当していた番組「世界名画劇場」以外にも、確か「シェークスピア劇場」という番組を主に教育テレビで放映していましたが、セリフの半分くらいは差別用語だと聞いてびっくりした覚えがあります。これも徹底的にチェックされます。例えば私が苦労したのはla bonneというフランス語に「女中」という邦訳が使えなかったことでした。意外と現代ものでもこの単語は映画にはよく出てきます。NHKの推奨は「お手伝い」です。文字数が2倍になるのは、困りものです。そこで私はいつも「メイド」とすることにしました。1文字短くなるだけで、字幕翻訳者はとても助かりますから。

NHKには世界には例のないような辞典があって、それは熟語が羅列してあるのですが意味は一切書いてないのです。ではこの「NHK用語辞典」なるものは何のためかというと、使ってもよい漢字・熟語のリストなのです。それらを逐一調べ、確認するのも字幕翻訳者の重要な仕事です。

3番目のハードルは流行語

最後に、流行語もいけません。流行語を使ってはいけない、と初めて聞いた時は不思議に思って理由を尋ねました。「その時はいいけど流行語はすぐ古くなるからね」という答えでした。なるほど、と納得しましたが、その後私自身もいくらか経験を積んでいくと、流行語を安易に使うのはやはりいろいろと問題があるのではないかと得心する部分がありました。

つまり、字幕の場合、例えば日本とフランスといった、つねに2国間の文化の違いが暗黙のうちに後ろに控えているのですから、それを日本で使われている流行語でうまく表現できる機会がそんなにあるとは考えにくいのです。また流行語を使って視聴者の笑いを取ろうとすることも、やってみるとわかりますが到底できるものではありません。

フランスのカフェ、テラス席

字幕は「話しことば」それとも「書きことば」?

映画字幕は果たして「話しことば」なのか、それとも「書きことば」なのか、という問題も出てきます。私の意見をあっさり申し上げてしまうと、字幕は明らかに「書きことば」なのです。流行語が字幕にはなじまないのは、この理由にもよるのではないでしょうか。流行語は、何といっても軽妙なリズムを生命とする「話しことば」なのですから。

流行語が簡単に利用できないように、文化の違いなどによる翻訳の内容的な難しさは、やはりフランス映画の場合には避けて通れません。いよいよ最終回となる次回は、フランス文化にも触れつつ、そうした翻訳の試練もまたフランス映画の魅力につながるものであることをお伝えできればと思っています。最終回もまたぜひお会いしましょう。

(最終回は「フランス映画の真髄って?」についてお話しします。全4回)

著者、吉田泉
NHKテレビ『世界名画劇場』字幕翻訳担当時の著者(左)

記事を書いた人:吉田泉(よしだ いずみ)
富山県生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。
パリ第3大学大学院留学文学修士取得。
東京大学大学院仏文学専門課程博士課程修了。
立教大学、日本女子大学講師を経て高岡法科大学助教授。後に教授。
現在、富山県芸術文化協会名誉会長を務める。
NHKテレビ『世界名画劇場』にてフランス映画の字幕翻訳を長年担当。主なものとして「巴里の空の下セーヌは流れる」「北ホテル」「死刑台のエレベーター」「太陽がいっぱい」「恐怖の報酬」「かくも長き不在」など。

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