2025.08.22 著者のコラム Mystery Parrotコラム第3回:インセル文化はアメリカン・スラングの苗床 著者 Mystery Parrot (ミスパロ) 流行語やスラングの多くは、言語を問わず、「社会の周縁の集団から誕生することが多い」という説を耳にされたことがある方は多いのではないでしょうか。日本だったら例えば「極道社会」とか「2ちゃんねらー」とか「女子高生」などが思い浮かびますね。この種の言葉は初めは「身内だけに通じる隠語」として生まれ、次いで「仲間内の絆を強化する手段」として使われ、時には「外部世界からの防衛」という役割も果たします。 アメリカの場合も、スラングを生み出し、マジョリティ文化の語彙に多大な影響を与えてきたマイノリティ集団は多数あり、例えば「アフリカ系アメリカ人 (AAVE)」、「ギャング」、「LGBTQ+」、「ゲーマー」、「MAGA」、「スウィフティーズ (テイラー・スウィフトのファン層)」などが思い浮かびます。ですが、ここでは「他のどのコミュニティよりも現代スラングの発展に大きく貢献してきた」と言われる「インセルたち」と、彼らが生み出した語彙に焦点を当てたいと思います。 「インセル (incel)」は「自発的ではない」を意味する involuntary と「禁欲」を意味する celibacy を合体させたもの。「異性との性関係を望んでいるのに叶わない」と主張する人々が、自らをそう呼び始めたのが発端。あえて日本語にするなら「非モテ」「恋愛弱者」という感じでしょうか。 インセル文化は、当初は 4ch などの匿名掲示板で花開きました。4 ch にはユーザーアカウントが存在せず、投稿はすべて匿名。そのため、「年季の入ったインセル」が仲間内で自身が古株であることを匂わせて優位に立つためには、グループ内で共有されているスラングを駆使することが必要でした。このある意味、特殊な圧力が、多くのインセル用語が生み出されるきっかけになったと言われています。 インセル用語で最も有名なのは、「赤い錠剤」を意味する Redpill (レッドピル) 。カルト的 SFアクション映画『マトリックス』をご覧になった方は、キアヌ・リーヴス演じる主人公が、「レッドピル」を服用して「これまで見えなかった世界の真実に目覚める」という筋書きを覚えておられるかも。インセル教義の土台は、「女は利己的で浅薄な生き物」で、「外見もしくは経済力に恵まれない男には一瞥もくれない」ということ。ここから「現代社会は実は女に有利な構造になっていて、大部分の男は虐げられた存在なのだ」という世界観につながっていきます。インセルたちは、「この『真実』に目覚め、インセル教義にハマること」を Redpilled (レッドピル化) と呼びました。 ■引用画像 非モテであるがゆえに「童貞 (Virgin)」の自分たち。その対極にある存在は「女どもが群がる性的に勝ち組の男」で、インセル用語では「チャド (Chad)」と呼ばれます。「チャド」はイギリスの男性名ですが、1990年代のシカゴでは「裕福で都会的な若者」を揶揄するのに使われていたので、そこから借用した呼称。 下のイラストは、インセルたちの手でテンプレ化された Virgin (童貞) 対 Chad (チャド) の構図。左側は、前かがみで内省的、すべてを多角的に検討した挙句、何一つ行動には移せない「童貞 (Virgin)」。他方、右側は、筋肉と精力と無頓着な行動力を体現したような「チャド (Chad)」。 「童貞 (Virgin)」がインセルから脱却し、女性と性交渉を果たすためには、(Chad にはなれないまでも) 自身の市場競争力を少しでも底上げし、最適化を図らなくてはなりません。インセルたちは、この行為を Maxxing (マックス化) と呼びました。Maxxing は句動詞 max out(最大化する) に派生しているのですが、インセル界隈では「市場競争力をできる限り高める」というニュアンスで使われます。語頭に別の言葉をつけて使う場合も多く、例えば Looksmaxxing は「容姿を最大限に向上させる」。 インセルたちが集う掲示板では、このようなある種、独特なインセル用語を頻用することが「レッドピルを服用した (redpilled) 正真正銘のインセル」を匂わせる裏付けとなり、たまたま立ち寄った「トーシロ (normie) ではない」ことの証左につながったのです。言い換えれば「インセル特有の語彙をひけらかすこと」こそ、「コミュニティの中でステータスを獲得する必須条件」だったわけです。 と同時に、コミュニティ内部のメンバーは、インセルとしての「純度」を証明し、「なりすまし (fake-cel)」 や「自発的禁欲者 (vol-cel)」のレッテルを貼られることを避けるために、お互いを相手に絶え間なくインセル思想を捏ねくり回していました。これがまた、新たなインセル用語が続々と生み出されるきっかけとなっていったのです。 例えば、mog は「グループ内のアルファオス」を意味する alpha male of the group (AMOG) から派生した言葉。インセルたちはこの言葉を「外見的な魅力や社会的地位などで周囲を圧して、比較対象をみじめに見せる」という動詞として使用。 また、cope with ~ は「〜に対処する」という意味で文語でも口語でもよく使われる標準的な英語の句動詞ですが、インセル用語では cope 一語で「受け容れがたい現実から逃避するためにしょうもない言い訳をして自分を丸め込む」というやや自虐的で特殊な使い方をするように。 これらのスラングは今や一般化され、15〜30歳くらいのアメリカ人のあいだで日常的に使われています。また、ここで例として上げたインセル用語はあくまでも氷山の一角で、この他にも TikTok や X で頻用され、若年層スラングとして定着しているものは他にもたくさん。 来週は、こういったインセル用語が若年層のスラングとして一般化されていった過程について書きたいと思います。どうぞお楽しみに! これを書くにあたり、以下の文献を参考にさせていただきました。Gothard et al.: The incel lexiconhttps://arxiv.org/abs/2105.12006Axelsson & Lindgren: The Languages of the Involuntary Celibatehttps://www.diva-portal.org/smash/get/diva2:1596609/FULLTEXT01.pdfAleksic: Algospeakhttps://a.co/d/0cFNuOT 記事を書いた人:Mystery Parrot (ミスパロ)エンタメ翻訳家。幼少期より日米間を往復。アメリカの現地高校を卒業後、国際基督教大学にて学士号、アイビーリーグ校 University of Pennsylvania にて修士号 (Master of Liberal Arts in Philosophy) を取得。住友商事の NY 現地法人で勤務の後、Accenture NY 本社 にて日本・アジア向けイントラネットコンテンツ作成。その後、ミステリーからロマンスまで様々なジャンルの文芸作品、国民的人気アニメ、ベストセラービデオゲーム等の翻訳に専念。こう書くとあたかも生産的な人生を送ってきたように聞こえなくもありませんが、読書やゲームに耽溺し、廃人同様の生活を送った時期も長く、常にその時期への郷愁を胸に抱えて生きています。X では物心ついた頃から住んできた米国の政情や文化、英語版 Xで目についたツイートのシェア、時折は英語フレーズの解説なども行っています。@ParrotMystery にてぜひフォロー下さい。