2025.11.07 NEW 著者のコラム 英語が君臨するこの時代に #1 第一回 水村美苗の主張――『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』 目次はじめに日本語が亡びるとは!?三つの概念 ――〈普遍語〉〈現地語〉〈国語〉英語で書けるなら、誰がわざわざ自分たちの言葉で書くだろう賛否両論英語の優位性は当たり前? はじめに これから四回にわたり、今や世界語とも見なされている英語について考えてみたいと思います。英語が君臨するこの時代に生きざるを得ない私たちは、英語にどう向き合えばよいのでしょう。英語について考えることは、英語ではない言語を使うことの意味、さらには言語と人との関係について考える試みでもあります。 一回目の今回は身近な書として水村美苗の『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』を取り上げ、その主張を概観したいと思います。二回目ではロバート・フィリプソンの英語帝国主義の理論に注目します。そして三回目と四回目では南アフリカ出身のノーベル賞作家、J. M. クッツェーによる英語のヘゲモニーへの抵抗を見つめます。なお敬称はすべて略します。 日本語が亡びるとは!? 水村美苗の著書『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』は、2008年の出版直後から賛否両論の大きな反響を呼びました。ですからこの本をご存知の方も少なくないと思います。今回は改めてその主張を概観してみたいと思います。 まずはタイトルに注目してみましょう。『日本語が亡びるとき』とは、ずいぶんセンセーショナルなタイトルです。水村はこの「亡びる」の意味について次のように説明しています。「ひとつの〈書き言葉〉が、あるとき空を駆けるような高みに達し、高らかに世界をも自分をも謳いあげ、やがてはそのときの記憶さえ失ってしまうほど低いものに成り果ててしまうこと」。つまり現代日本の〈書き言葉〉、ことに文学が、かつて近代文学が隆盛を極めたころの水準を保てなくなっている。そして、この傾向が今後さらに強まるのであれば、それは「日本語が亡びるとき」だと、彼女は危惧を表明しているのです。 水村美苗 著『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』ちくま文庫 三つの概念 ――〈普遍語〉〈現地語〉〈国語〉 こうした水村の主張は、主に〈普遍語〉(universal language)、〈現地語〉(local language)、〈国語〉(national language) という三つの概念に基づいています。ここでそれぞれの内容を確認してみましょう。 最初に〈普遍語〉です。水村はこの語を説明する際に、まず「〈書き言葉〉とは〈話し言葉〉を書き表したもの」という認識の誤りを指摘します。「人類はほとんどの場合、〈外の言葉〉――そのあたり一帯を覆う、古くからある偉大な文明の言葉で読み書き」してきたからです。そしてその「文明の言葉」こそが〈普遍語〉なのです。ですから「読む」という行為は、「歴史的には、〈普遍語〉を読む」ことなのであり、自分たちの〈話し言葉〉と〈普遍語〉の両方を扱える「二重言語者」のみに可能な行為でした。 ここから水村はさらに、学問は普遍語でなされて当然という論を展開していきます。曰く、「学問とは、なるべく多くの人に向かって、自分が書いた言葉が果たして〈読まれるべき言葉〉であるかどうかを問い、そうすることによって、人類の叡智を蓄積していくものである。学問とは〈読まれるべき言葉〉の連鎖にほかならず、その本質において普遍語でなされる必然がある」。 いうまでもなく今日の〈普遍語〉は英語です。しかもその広がりは過去に類を見ない大規模なものです。歴史的に〈普遍語〉だった言語は、ラテン語、フランス語、中国語、アラビア語などいくつもありますが、今日の英語ほど世界全体に影響を及ぼしたものはありません。そしてこうした「英語の世紀」は、「来世紀も、来々世紀も、そしてその先も、多分ずっと続く」と水村は考えています。 次に〈現地語〉の内容を確認しましょう。ここで〈現地語〉とは、「〈普遍語〉が存在している社会において、人々が巷で使う言葉であり、多くの場合、それらの人々の母語」を指します。そして、〈普遍語〉が「上位のレベルにあり、美的にだけではなく、知的にも、倫理的にも、最高のものを目指す重荷を負わされる」のに対し、「〈現地語〉は下位のレベルにあり、もし〈書き言葉〉があったとしても、それは基本的には「女子供」と無教養な男のためのものでしかない」といいます。つまり水村は、〈普遍語〉と〈現地語〉の間に明白な上下関係を見出しているのです。 では最後に〈国語〉です。「もとは〈現地語〉でしかなかったある一つの言葉が、〈普遍語〉から翻訳するという行為を通じ、〈普遍語〉と同じように、美的にだけでなく、知的にも、倫理的にも、最高のものを目指す重荷を負わされるようになる。その言葉が、〈国民国家〉の誕生という歴史と絡み合い、〈国民国家〉の言葉となる。それが〈国語〉」であると水村は説明しています。いいかえれば、翻訳という行為は歴史的に「上位のレベルにある〈普遍語〉に蓄積された叡智、さらには上位のレベルにある〈普遍語〉によってのみ可能になった思考のしかたを、下位のレベルにある〈現地語〉の〈書き言葉〉へと移す行為」であり、その「行為を通じて、〈現地語〉の言葉が〈書き言葉〉として変身を遂げていく」。そこから〈国語〉が誕生するのです。 そして〈普遍語〉と〈現地語〉の要素をあわせ持つ〈国語〉は、「18世紀半ばから西洋で近代小説というものが書かれるようになった」とき、この新しい文学ジャンルに最適な言葉でした。日本では明治維新以降、「日本語がはやばやと、名実ともに〈国語〉として成立」し、それに伴い19世紀末までには〈国民文学〉が生まれ、優れた作品が次々に世に送り出されることになります。 英語で書けるなら、誰がわざわざ自分たちの言葉で書くだろう さて、これで〈普遍語〉、〈現地語〉、〈国語〉のそれぞれの内容が確認できました。ではこの三つは「日本語が亡びる」ことに、どのように結びつくのでしょうか。 一世紀ほど前から日本のみならず世界で「文学の終わり」が意識され始め、近年ではその傾向がいよいよ顕著になってきたといいます。その背景として「科学の急速な進歩」「〈文化商品〉の多様化」「大衆消費社会の実現」などが挙げられますが、「ほんとうの問題は、英語の世紀に入ったことにある」と水村は主張します。 インターネットの普及も手伝って、英語は今まさに世界規模の〈普遍語〉となりつつあります。このことは同時に「〈学問の言葉〉が英語という〈普遍語〉に一極化されつつある」ことを意味します。「背後に世界の学者の合意があるわけでも、英語人の陰謀があるわけでもなく、〈学問〉とは〈普遍語〉でなされてあたりまえだという〈学問〉の本質」があるからです。結果として英語のみが突出して多数の読み手を獲得することになります。 水村は問います。「もし英語で書くことができれば、学者のみならず、いったい誰がわざわざ〈自分たちの言葉〉で書こうとするであろうか」と。〈叡智を求める人〉は〈国語〉で書かなくなる。「その結果、〈国語〉で書かれたものはさらにつまらなく」なり、「〈読まれるべき言葉〉としての価値を徐々に失っていく」。このことは「〈国語〉そのものが、まさに〈現地語〉に成り果てる可能性」、あるいは「〈国民文学〉が〈現地語〉文学に成り果てる可能性」を指し示しています。そして水村はこうも問いかけます。「日本で流通している〈文学〉は、すでに〈現地語〉文学の兆しを呈しているのではないだろうか」。 そこで「日本語が亡びる」のを食い止めるために、水村は教育の見直しを提唱し、英語教育においては国民全員ではなく一部の人々がバイリンガルになることを目指し、その分、国語教育を強化するべきである、とりわけ「日本近代文学を読み継がせるのに主眼をおくべき」である、と訴えています。 賛否両論 この本は水村自身の経験、学者や作家のエピソードなどを織り込んだボリュームのある著作ですが、その骨格はこれまで述べてきたとおりです。その根底には日本語、特に日本近代文学への強い愛着が感じられます。 前述のとおり、この本は出版当時、賛否両論を巻き起こしました。第八回小林秀雄賞を受賞するなど高く評価される一方で、現代の日本文学を軽視しているとして、水村自身の言葉を借りれば、「顰蹙」を買うことにもなりました。また文芸評論家の石川義正は「「始末の悪い愛国主義者」の不出来な論文のように読まれてしまう」傾向に言及しています。ただし扇情的であるがゆえにも、この本が多くの人にとって言語へ目を向ける契機になりうることは間違いないでしょう。 英語の優位性は当たり前? 本連載において特に注目しておきたいのは、水村の英語に対する見方です。彼女は〈普遍語〉という英語の地位にも、〈学問の言葉〉が英語に一極化されつつあるという現状にも、いっさい問題意識を表明していません。英語が〈普遍語〉になったことについては「歴史の偶然が重なってのこと」と述べていますし、〈学問の言葉〉が英語であることについては、前述のとおり〈普遍語〉であれば当たり前のことなのです。けれどもこうした英語の優位性は、果たして当然のことなのでしょうか。 また〈普遍語〉が上位で、〈現地語〉が下位という序列にも疑問が生じます。この序列は言語の使用者数のみに基づくものではありません。〈普遍語〉は「美的にだけではなく、知的にも、倫理的にも、最高のものを目指す」という点においても上位なのです。だからこそ〈普遍語〉からの吸収が途絶えれば、〈国語〉は「〈現地語〉に成り果てる」ことになります。 英語は、〈普遍語〉である以前に、〈現地語〉でも〈国語〉でもあるはずです。いいかえれば固有性を備えた一つの言語です。このことは12歳のころから長期にわたりアメリカで過ごした経験を持つ水村自身が、身をもって体験していることでもあります。彼女は多くの読者を獲得しうる英語で作品を書くこともできたはずですが、日本語を選びました。その理由は「二つの世界、二つの主体のなかで生きるのを強制した、ほかの何物にも還元することのできない、二つの言葉の、物質的ともいえるちがい」に向き合ったことにあると、彼女自身が書いています。 つまり普遍語と称したところで、その言語が普遍的な、透明なツールであるとはいえません。各言語からはそれぞれ異なる世界が広がるのです。ではそれほど異なる言語に序列を設けることがそもそも可能なのでしょうか。また一つの言語が〈普遍語〉として、どの言語世界も共有しうる最高の美や倫理を提示し得るのでしょうか。 次回は、水村とはまったく異なる考え方を取り上げたいと思います。それは、ここで挙げた疑問にすべて「ノー」を突きつけるだろう考え方です。 (次回の記事はこちら)第二回 ロバート・フィリプソンの主張――英語帝国主義 川村 由美(かわむら ゆみ)早稲田大学大学院人間科学研究科ほか非常勤講師。桐朋学園大学音楽学部演奏学科を卒業後、音楽および舞台全般に関わる雑誌編集等を経て、早稲田大学大学院文学研究科に進学し、同大学院博士課程修了。博士(英文学)。著書に『J・M・クッツェー 命をめぐる思索――『夷狄を待ちながら』から『恥辱』へ』(水声社 2025年)。