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英語が君臨するこの時代に #3

第三回 J. M. クッツェー、英語のヘゲモニーへの抵抗――『ポーランドの人』とSpeaking in Tongues(1)

(前回までの記事はこちら)
第一回 水村美苗の主張――『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』
第二回 ロバート・フィリプソンの主張――英語帝国主義

 今回から二回にわたり、特異な形で英語のヘゲモニーに抵抗する南アフリカ出身の作家、J. M. クッツェー(1940-)に注目します。なお、ここでいうヘゲモニーは、前回取り上げたフィリプソンのグラムシ的ヘゲモニーに限定されない、より一般的な意味での「支配的地位」を指します。

 クッツェーは2002年にオーストラリアに移住し、市民権も取得しています。ただし前述のとおりもともとは南アフリカ出身の白人作家で、イギリス、アメリカで過ごした約十年間を除けば、移住までのほとんどの時間を南アフリカで過ごしました。つまり彼は、差別と暴力に満ちたアパルトヘイト時代を、肌で感じてきた作家です。しかも白人として、加害者側に自分があるという意識を抱きながら、その時代を過ごしたのです。
 彼の作品には際限のない思索が書き込まれています。仮に他者の暴力が描かれるとすれば、他者よりもむしろ自己のなかに潜む暴力性がさまざまな角度から探求されます。日本では誰もが知る作家とはいえませんが、欧米においてはとても評価が高く、ノーベル文学賞(2003年)を受賞しているほか、二度のブッカー賞を含む数多くの賞を獲得しています。

英語のヘゲモニーへの抵抗宣言


 クッツェーは2018年にコロンビアで開催された文学祭で次のように語りました。

私は英語が世界を席巻していくやり方が、好きではありません。英語がその行く先々で出会うマイナーな言語を押しつぶしていくやり方が、好きではありません。英語という鏡に映る世界こそが現実だと無批判に信じ、自らを普遍的なものとみなす思い上がりが、好きではありません。こうした状況が英語の母語話者のあいだに生む傲慢さが、好きではありません。ですから私は英語のヘゲモニーに抵抗するために、ささやかではあっても、自分にできることをします。

これは前回取り上げたフィリプソンの英語帝国主義批判にも通じる、英語のあり方への非常に厳しい批判です。ただしクッツェーは英語で書く作家です。前述の高い評価も、彼の英語作品に対して与えられたものです。ではどのように彼は英語のヘゲモニーへの「ささやかな」抵抗を成し得るのでしょうか。

翻訳書から翻訳!?――最新小説『ポーランドの人』で計画されていたこと

 クッツェーは近年、自身の作品を出版する際に、英語原書よりも先にスペイン語訳やオランダ語訳を刊行するということを行っています。これは英語中心主義への抵抗であると、周囲から目されています。
 英語中心主義とは、前回取り上げた英語帝国主義と重なるところもありますが、ニュアンスが少々異なります。英語帝国主義が植民地時代を引き継ぐ支配構造を反映した英語のあり方を指すのに対し、英語中心主義は、英語圏、特に英米の言語、文化、価値観に基づいた視点で世界をとらえ、非英語圏の視点を軽視する傾向を指します。例えば国際的な議論の場で英語を使うことを当然視する態度は、英語中心主義の典型といえます。
 クッツェーが近年、自分の作品を翻訳書から先に出版してきたことには、こうした英語中心主義への抵抗が、一つにはあると考えられます。なかでも現時点での彼の最新小説『ポーランドの人』では、一段とその攻勢を強めています。この小説は2022年にアルゼンチンの出版社「アリアドネの糸」から、スペイン語訳先行で刊行されました。ただしクッツェーはスペイン語訳を先行させるばかりではなく、このスペイン語訳をオリジナルとして位置づける計画を立てていたのです。つまりほかの言語で出版する際は、英語の原文からではなく、スペイン語訳から翻訳することにしたのです。しかも英語版までもを英語原書を用いず、スペイン語訳から翻訳するという計画でした。
 各国の出版社が承諾しなかったため、この計画は実現しませんでした。ちなみに日本の出版社も承諾していません。

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J. M. クッツェー著、くぼたのぞみ訳 『ポーランドの人』白水社
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J. M. Coetzee著 The Pole and Other Stories. Vintage.

今年出版されたSpeaking in Tongues

 スペイン語訳をオリジナルとするというクッツェーのこの大胆な計画は実現しなかったとはいえ、大いに思考の糧をもたらしてくれるものです。英語中心主義への抵抗に加え、原作と翻訳の地位の転倒が図られたのです。いいかえれば、当然のことのように思われてきた原作に対する翻訳の「二次的な地位、すなわち模倣(それも不完全な模倣)の地位」に疑問が突きつけられたのです。
 そして今年(2025年)、この計画を掘り下げる内容の本、Speaking in Tonguesが、『ポーランドの人』のスペイン語翻訳者、マリアナ・ディモプロスとクッツェーの共著で出版されました。この本では二人の対話形式で、両者それぞれの言語的背景、翻訳の地位や可能性などが論じられ、前述の計画の経緯も明らかにされています。
 序文の冒頭には「これは言語――すなわち言語にできることとできないこと――についての本である」と記されています。タイトルの "speaking in tongues" は、新約聖書のフレーズで、「異言」を示唆していると考えられます。「異言」とはここで、聖霊の賜物として与えられる人智を超えた言葉を指します。異言を賜ることによって、神への霊的な言葉を語る、あるいは、学んだことのない言語を語る、など超自然的な働きが現れるとされています。英語版に先立って刊行されたこの本のスペイン語版のタイトルはDon de Lenguasで、「言葉の賜物」の意味です。やはり聖霊によってもたらされた言葉であることを含意しています。つまりタイトルには、聖霊の力を得てようやく、異なる言語の壁を超えた伝達が可能になる様子が示唆されているのです。そこには序文と同様に、人が操作しうる言葉の限界がほのめかされているのかもしれません。あるいは、そうした賜物への憧憬が込められているのかもしれません。
 この本のなかで本連載では特にクッツェーと英語との関わり、そしてそれがどのように前述の『ポーランドの人』の計画につながっていくのか、という点に注目します。

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J. M. Coetzee, Mariana Dimópulos著 Speaking in Tongues. Liveright Pub Corp.

二重言語生活者とは

 Speaking in Tonguesのなかでクッツェーはまず、友人や家族などと過ごす私的な場では母語を、それ以外の公的な場では主要言語を用いる二重言語生活者について、二つの見解を示しています。一つ目は、二言語を使い分けることにより、二重言語生活者は「世界が自然に見えるままのものではなく、それを理解するための言語によって構成されているという教訓を幼少期から身につけている」という見解。二つ目は、「公的な場では母語とは異なる言語を通して世界を理解し、表現しなければならない」ために、二重言語生活者は「不安定な存在」であるという見解です。不安定というのは、二重言語生活者にとって公的な場で用いる言語が「根源的なレベルで異質」であるからです。彼らは「その言語のなかで母語話者のようにくつろぐことは決してできない」のです。
 そして、こうした二重言語生活者のなかには、「マイナーな言語コミュニティーの出身でありながら、メジャーな言語で創作活動を行う作家たち」も含まれるといいます。これはクッツェー自身の状況にも当てはまります。とすればクッツェーは二重言語生活者のことを、自分のこととして語っているのでしょうか。ただし彼には二重言語生活者とは呼び難い側面があります。ではここで彼の言語的背景をのぞいてみましょう。

クッツェーの言語的背景

 彼の母方はポーランドとドイツにルーツを持ち、南アフリカのオランダ語圏に移住した家系です。父方は17世紀にオランダからアフリカ南端へ渡った家系です。南アフリカにおいてオランダ系移民は、のちに自らをアフリカーナーと称するようになります。またオランダ語はクレオール化が進み、アフリカーンス語として知られるようになります。南アフリカの白人は、アフリカーナーとイギリス系が大部分を占めます。ちなみに現在11ある南アフリカの公用語のうち、ヨーロッパ起源の言語は、アフリカーンス語と英語の二つです。そしてクッツェーは、両親のルーツからアフリカーナーに属するといえます。
 ただし彼の両親は二人とも、英語で教育を受けています。これについてクッツェーは次のように語っています。

母方、父方のいずれの家族にとっても、英語――支配者の言語(the master tongue)――こそが未来への道であり、子どもが成功するためには英語での教育が最良の手段だと思われていました。両親とも教育は英語で受けており、アフリカーンス語の読み書きよりも、英語の読み書きの方が上手でした。

このエピソードは、前回取り上げたフィリプソンのいう英語のヘゲモニーを思い起こさせます。そしてクッツェーの両親は、家庭という私的な場においても英語を使ってクッツェーを含む子どもたちを育てます。つまりクッツェーは家でも学校でも英語を使う環境のなかで成長したのです。アフリカーンス語も話せますが、明らかに英語が中心でした。クッツェーは学校に通うようになると、英語が「得意」であることに気づき、この言語に対して「直感的な感覚を持っているように思えた」といいます。
 その後、クッツェーはケープタウン大学に進学し、数学を専攻する傍ら「英語および英文学」を学びます。クッツェー曰く、

ケープタウン大学は、イギリス自由主義の価値観に基づき、人類は歴史的に進歩の途上にあり、その進展を導く役割を神の摂理によってイギリス人種が託されている、という「進歩」の信念を制度的に体現していました。この信念は非常に深く根づいており、ほとんど言葉にする必要もないほどでした。

ここにもフィリプソンのいう英語のヘゲモニーが維持されている様子がうかがえます。そしてクッツェーはこの大学の英語の授業で、「イギリス系南アフリカ人のクラスメートたちと互角に渡り合い、彼らと同じくらいその言語を知っているのだと思えた」と述べています。
 こうしたクッツェーの言語的背景を見てくると、幼少期から私的公的いずれの場でも英語中心の生活を送り、しかも英語に直感的感覚を覚え、イギリス系のクラスメートとも互角ということから、彼自身がイギリス系ではないにしても、彼の母語は英語といえるのではないか、いや、英語よりほかにないのではないか、と思えてきます。けれども先述のように、彼は自身を二重言語生活者ととらえている節があり、英語を母語と感じてはいないようです。なぜなのでしょうか。
 次回はこの点を考察するところから、始めたいと思います。


川村 由美(かわむら ゆみ)
早稲田大学大学院人間科学研究科ほか非常勤講師。桐朋学園大学音楽学部演奏学科を卒業後、音楽および舞台全般に関わる雑誌編集等を経て、早稲田大学大学院文学研究科に進学し、同大学院博士課程修了。博士(英文学)。著書に『J・M・クッツェー 命をめぐる思索――『夷狄を待ちながら』から『恥辱』へ』(水声社 2025年)。

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