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  • 著者のコラム

ことば屋さんのまいにち 第2回

著者 高橋美佐(英語・仏語・伊語フリーランス通訳、コーディネーター)

――通訳や翻訳という商売は、なにを売る商売かというと、「ことばを使ってできるサービス」を売っているのです。ベレ出版さんは本を作って売っていらっしゃるので本屋さんですね。だから、私は、ことば屋さん。わたしのお店に並んでいる品物は、英語と、フランス語と、そしてイタリア語です。

毎日、いろんな注文が飛び込んできます。「無理な注文」もときどきあります。でもだいたいのところは、なんとか、売ることができています。いったいどんな注文が入るのか、みなさんにお話しましょう。

・注文その2・
「海外の企業と日本の企業が共同事業をします。その契約書を翻訳してください」

うわっ、契約書……

苦手なんです……はっきり言って。法律に深く関わっている言葉だから、もし翻訳に間違いがあったら大変です。契約書を専門とする翻訳家さんも多い中、私の「ことば屋」の看板が、「なんでも売ります。」みたいに映るのか……こんな専門的な注文がときどき飛び込むのです。

売ってくれと言われたら、商売だから売らないわけにはいかない。なので、もう、今日から数日間はねじりハチマキ。受験生みたいに辞書を片手に、それでわからないところはインターネットで検索しまくり、売れる品物にまで、作り上げるのです。

忘れる……思い出す……この繰り返し

送られてきた原文の契約書に目を通します。前回、契約書の注文が来たのは、1年ぐらい前だったかな……そうそう、こういう表現だった、まず、最初の導入部があって、条文が一つずつ並んで、「不可抗力の場合は……」とか、「訴訟の場合は……」とか、あった、あった……って思う。で、過去に見たことがあるはずの決まり文句を、情けなや、きちんと覚えていない。辞書を引くと、「そうだ、こういう日本語だったっけ!」って思い出す。難しいのはむしろ日本語のほうです。契約書や法律関係が専門の翻訳者さんなら、こういう表現に頻繁に触れているから、定型の和訳なんかすぐに頭に浮かぶんだろうなぁ。しかしこちらは、食べてくためならなんでもやります、で「ことば屋」をやっている身。注文がくるたびにあたふた。

辞書を写して、自分用のあんちょこを作る

ざっと文書の全体を眺めた時に「うん、うん、だいたいはわかる、少し不明な単語があるけど。」というぐらいなら、すぐに翻訳にとりかかることができる。でも知らない単語があまりにも多いと、辞書を引くたびに手が止まり、考えていた文章の流れが頭の中で止まってしまうので、効率が悪い。契約書の場合は原文の単語をふつうの意味でわかっていても、法律的に問題が起きないような和文に仕上げるには、何回も何回も辞書を引くことになる。例えば英語のacknowledgeという単語は広くは「認める」という意味だけれど、契約書では「承認する」とか「同意する」など硬い感じの言葉がいいのかしら……等々、悩みは尽きない。今はネットで検索して例文を調べればずいぶん多くのことがわかるようになった。でも以前は辞書だけが頼りだったので本当に大変でした。最後に淀みなくスイスイと和文を仕上げるために、まずは徹底してこの単語調べに時間を費やすのです。

なにを好んでこんな、時間のかかるやり方を……と思うけれど。

パソコンのスクリーンにいくつもの画面を開き、マウスのクリックも軽やかに、スイスイスイと全ての作業が2次元空間で済めばカッコいいかもしれません……が、残念ながら、私は電子辞書もウェブ辞書もどうも肌に合わなくて、分厚い「紙の辞書」で作業をします。高校・大学時代に使っていた辞書を今でも使っています。そこで調べた内容を、プリントした原文の行間に赤いペンで書き込んでいく。こうやって「あんちょこ」を作ります。隠さず申し上げて、このプロセス、ばかみたいに時間がかかる。こんな効率の悪いことをやる翻訳者はあまりいないんじゃないかと思います。

ですがこのプロセスを経て、その、赤い文字が余白にぎゅうぎゅうに詰まった紙を見ながら、いよいよPCの画面にこんどは日本語で一気に入力する時間は、とても気分がいいのですよ。例えて言えば、いちいち辞書を引いていた時は、五目チャーハンを作るためにお肉とか野菜とかのいろんな具を、ぜ〜んぶ同じ大きさの賽の目になるように、神経使って切っていたようなもの。それを、いよいよ中華鍋に油をひき、ザ〜っと放り込んでご飯と一緒に炒めるときの快感……なわけです。下準備のとき、具の切り方が雑で形が不揃いだと、最後には見た目の悪いチャーハンになってしまう……そう思いませんか?

自分のフィーリングを止めないで流れのよい文章を書くために、辞書を引く時間は不可欠なのだと確信するまで、もっと楽な方法はないのかしらと暗中模索しました。でも結局この方法に落ち着いています。お客さんにとって大事なのは、最終的に仕上がった日本語のクオリティだけです。そこで納得して買ってもらえれば、手間は報われた、と思うべきでしょう。世の中には、お店に品物を買いにきた人が想像もしないところに手間をかけている商売が、いくらでもあるはず……私なんて楽なほう。そう思っています、ほんとですよ!


記事を書いた人:高橋美佐(たかはし みさ)
フリーランス通訳、コーディネーター。
東京都出身。大学での専攻はフランス文学。
ヨーロッパと日本のビジネス、文化交流の橋渡し役として、すでに20年。
経験に基づきながら「心をつなぐために、ことばができること」を考えます。これまでも、これからも。

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