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  • 著者のコラム

ことば屋さんのまいにち 第3回

著者 高橋美佐(英語・仏語・伊語フリーランス通訳、コーディネーター)

――通訳や翻訳という商売は、なにを売る商売かというと、「ことばを使ってできるサービス」を売っているのです。ベレ出版さんは本を作って売っていらっしゃるので本屋さんですね。だから、私は、ことば屋さん。わたしのお店に並んでいる品物は、英語と、フランス語と、そしてイタリア語です。

毎日、いろんな注文が飛び込んできます。「無理な注文」もときどきあります。でもだいたいのところは、なんとか、売ることができています。いったいどんな注文が入るのか、みなさんにお話しましょう。

・注文その3-1・
 訳せなかった、「そこをなんとか。」

「ロンドンの設計事務所と、電話会議をしますので……」

お客さんは、こう切り出した。ずいぶん前ですが、バブル景気には翳りが見え始めていたとはいえ、海外とのビジネスに勢いが残っていた……そんなころに受けた、忘れられない注文のお話です。

東京の広告代理店が、ある展示会で会場の目玉となる大きなブースの設計を、イギリス人デザイナーに依頼しました。ロンドンのデザイナーの事務所では着々と図面を仕上げていますが、作業がやや遅れ気味。スケジュール確認の電話会議をするというのです。

「は?電話会議?」……私の、このアナログぶり。時代はもはや「オンライン会議」で、「電話」という語彙すら古いけど、まあ、お聞き流しを。とにかく指定された日時に都内の一等地にビルを構えるその代理店の担当部署を訪ねたのです。

小さな会議室に通され……

そこには電話機が数台用意されていて、イヤホンをつけて通話に参加する人たちがみな同時に内容を聞き取れるようになっていました。日本側のチーフは佐々木さん(仮称)という若い男性。ふだんの英文メールは自分で十分できるけれど、会話が苦手。「きょうはどうかよろしくお願いします。」と一礼される。

こんなとき、「英会話ができる」とか、「会議で通訳ができる」というのは、英語力の一体なにを評価してのことなのかな、と思う。日本で大学を卒業し大手企業の採用試験に合格したなら基礎力は十分。文法の知識もしっかり身についているはず。それに比べ私など、自分が習得した外国語の試験でいま高得点が取れるかどうか、怪しいものです。運転免許の筆記試験を思い浮かべてみてください。教習所で筆記試験に受かるのと、実際に道路で運転するのとでは、問われるのは違う技術なのです。

つねに期限を決めて、そこから逆算する日本人

さて佐々木さんの気がかりは、ロンドンでデザイン事務所を主宰するドイル氏(仮称)から、あと1週間で最終の図面をもらわないと、日本側のその後の工程に甚大な遅れが生じること。今日は週半ばの水曜日で東京は夕方5時すぎ、ロンドンは朝の9時。1日の仕事が始まったばかりのドイル氏、よく会話に集中し歯切れよく質問に答えてくれて、感じがよい。

「ええ、順調ですよ。ただ3週間前の進行確認のときにお話した電気系統の問題がまだ完全に解決していません。」とドイル氏。私は、それを日本語に訳す。佐々木さんが不満げな視線をこちらに投げる。事情はあるにせよ、前回すでに顕在化していた遅延が「そのまま」なことが納得できないのだ。3週間後にまた連絡を取り合う約束をした場合、それまでに事態を好転させるべき、と日本人は強く思う。あるいは好転が難しいと予見したら早めにその旨を自ら伝えるべき、と考える。それは相手に対する「要求」に他ならないが、日本人同士はこれを言葉にしなくても感覚でキャッチする。

「電気系統については、専門のメンバーを解決に当たらせる、とおっしゃっていたじゃないですか。」と佐々木さん。「はい、その予定だったのですが、いま彼が他の企画も抱えていまして多忙なんです。」「外壁のパネルのデザインは仕上がっていますよね?」食い下がる佐々木さん。「ええ、8割かた、仕上がっています。ただ、配線が決まらないと、パネルの図柄に影響するので……」とドイル氏も譲らない。

佐々木さん、だんだん泣き声に……

「来週の水曜の朝、日本時間の朝9時には、最終図面をこちらにいただきたいのです。この期日は以前に申し上げていますし、もし守れなかったら契約違反になってしまいますよ。」佐々木さんは丁寧な日本語で話し続けているが、声はふるえている。そして私のほうは敬語に配慮するような余裕がなくなってくる。なにしろ会議参加者とは初対面だし、図面の事情がどうなっていたのかなんて、1時間前に知ったばかり。頭の中で情報を整理し、先のことを見通して、最適な言語表現を探るのが「ことば屋」。でも「こういう時、Could you please 〜?がいいのかな、はっきりCan you〜?がいいのかな?」なんて細かいことが考えられなくなる。少しだけ落ち着けばいいのだけれど、電話だとどうも緊迫感が伴い、中学英語のシンプルな文型しか頭に浮かんでこない。

ただ、こんなとき注意すべき別のことがある。会話の中に、外国人側がキャッチしやすい形態に転換または補足して伝えるべきポイントがあるということ。ロンドンに住む人には「日本時間の来週水曜の朝9時までに」という情報はじつは不要。時差をすぐ計算し「来週の火曜日の深夜24時か、そこをまたいでとにかく1時までなら、こっちは待てる。」というほうが役に立つ。私はこのとき、そう訳した。まず「火曜の24時」と言ったのは(それは日本時間の水曜の午前8時で、つまり、Sさんが言う9時よりも1時間早い)、咄嗟の判断でした。両言語間の事実情報を寸分違わず正確に訳すことが通訳の正道なら、私はこの場合、正しくないことを、したのです。

しばしの間があって、ドイル氏が「……それは、無理です、できません。(No, I can’t. It’s impossible.)」と答えた。彼の「無理です。」に根拠があることはわかっていたけれど、これはズバリ訳すしかなかった。「水曜日の9時までというのは、不可能だそうです。」若い佐々木さんには今回の責任は大きなもので、その表情にじわじわと不安の色が濃くなっていく。(第4回につづく)


記事を書いた人:高橋美佐(たかはし みさ)
フリーランス通訳、コーディネーター。
東京都出身。大学での専攻はフランス文学。
ヨーロッパと日本のビジネス、文化交流の橋渡し役として、すでに20年。
経験に基づきながら「心をつなぐために、ことばができること」を考えます。これまでも、これからも。

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