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  • 著者のコラム

星の王子さまがみた世界 #4

第4回 『星の王子さま』とケアの思想

谷田利文(思想史研究者)

(前回までの記事はこちら)
第1回 『星の王子さま』と第二次世界大戦
第2回 大人の価値観に抗して
第3回 生権力への抵抗: 地方行政と地域社会から

ケアの思想

  第3回は、生権力に抵抗する事例を、地方行政と地域社会の側面から紹介しました。最終回の今回は、ケアの思想について紹介し、画一的な価値観自体を変える道を探りたいと思います。

ギリガン『もうひとつの声』

 ケアの思想が議論されるきっかけとなったのは、心理学者のキャロル・ギリガンの『もうひとつの声』(1982)でした。従来の道徳に関する発達理論においては、女性よりも男性の方が普遍的・抽象的な判断ができるようになるとされていました。それに対してギリガンは、他者への責任や関係性、文脈、個別性に重きを置く女性に見られる思考方法を「ケアの倫理」と名づけました。このような考え方は、女性が中心的に担ってきた「ケア労働」を評価するきっかけとなりました。そして、それを性別の問題と捉えるのではなく、新しい人間観として提示するものでした。

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Carol Gilligan
(By Deror avi ; cropped by User:Ravit - Deror avi, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15391210)

医療とケア

 ケアの思想は、社会学、政治学、文学など様々な領域で論じられていますが、ここでは、医療・看護の分野での展開について紹介したいと思います。近年、医療や看護において、医学的な数値によって把握できる治療だけではなく、患者とのコミュニケーションを重視したり、患者の日常生活を尊重しようとするケアの領域が注目されてきています。

人間とは「ケア」をする存在

 榊原哲也『医療ケアを問いなおす』では、「病を患う」ことは、身体的な疾患だけでなく、心理面も含め、心身の全体にわたるトータルな経験であり、患者の心身をトータルにみてケアをしなければ、十分な医療ケアにはならないとされます。そして、その根底には、人間は道具や他者や自分自身を「ケア」する存在だという人間観があります。

「安らぎ」の回復

 そして、ケアの目的は「安らぎ」であり、「安らぎ」とは「人が何か・誰かを気遣うとともに、自分も誰かから気遣われていると感じること」とされます。一例として、末期の腎不全であった物作りの職人の方が、自分にとって一番大切な物作りを続けられることで、「安らぎ」を回復したことがあげられます。「これからどう生活していきたいですか。一番大事にしたいことは何ですか」という医師の問いを受け、在宅で透析が可能な腹膜透析を選択し、職人仕事を続けることができました。そして、この方の「安らぎ」の回復は医師だけでなく、医療スタッフ、ケアマネージャー、透析機器メーカーの人たちの気遣いにも支えられており、安らぎは具体的な人間関係と状況の中に埋め込まれていることが強調されます。

現象学とケア

  このようなケアの思想の背景には、人間はこの世界の道具や他者を、自分の意識や身体を介して認識しているという現象学の考え方があります。
 私たちは、同じ物を見ても、個人的な思い入れや記憶、経験によって違う印象を抱きます。そして、大人になってから小学校の校庭に行くと、自分の体が大きくなったため狭く感じたり、自動車の運転に慣れていくと、自分の身体の一部のように車幅を感じ取れたりと、意識だけでなく身体も、世界の捉え方に影響を与えます。
 そのため、病気や事故などによって失われた、その人の固有の世界である日常生活を回復することが重要となります。

ケアの対象としての〈からだ〉

 また、村上靖彦『ケアとは何か』では、治療は医学的な数値で計測できる身体を対象とするが、ケアは心と体があいまいに結びついた〈からだ〉を対象とするとされます。そのため、医学的に治療が不可能な場合でも、ケアは続きます。そして、そもそも人間は自力では生存できない未熟な状態で生まれるものであり、弱い存在であること、誰かに依存しなくては生きていけないこと、支援を必要とすることは、全ての人に共通する基本的な性質だとされます。

ケアのゴール

 そして、ケアのゴールとは、患者や苦境の当事者が自身の〈からだ〉の感覚を再発見し、自らの願いを保てるような力の発揮を目指すことだとされます。そのため、ケアにおいては、医学的にはリスクがあっても、医師との相談の下、好きな物を食べたり、病院ではなく慣れ親しんだ自宅でケアを受けることなど、患者の日常生活を尊重し、小さな願いに答えることが重要だとされます。そして、自分が望む治療やケアについて事前に話し合う「人生会議(ACP)」の本質は、治療についての意思決定ではなく、患者の好みや望みについて、周りの大事な人たちと話し合うプロセスそのものだとされます。

当事者としてケアを考える

 このように、ケアの思想は、自分の意識や身体によって取り結んでいる日常の世界を尊重し、病気や様々な苦境にあっても、周りの人々のケアにより、自分らしく生きることを目指すものです。そして、ケアは一方的なものでは無く、全ての人間がケアをし、ケアをされる存在といえます。若い時や健康な時は意識しないかもしれませんが、私たちは病気や事故などにより、いつでもケアを必要とする状態になりえますし、高齢化が進む中で、多くの方が晩年をケアをされる存在として過ごすことになります。人間は相互にケアをしあう存在だという価値観を持ち、社会や国家にとっての有益性という価値観に抵抗することは、私たちみなが当事者として考えていくべき問題ではないでしょうか。

「なつかせる」こと

 このコラムは、『星の王子さま』の「大人は数字が好き」という場面を出発点としてかなり自由に書かせていただきましたが、最後にまた『星の王子さま』の一場面に戻りたいと思います。

 王子は、小さな自分の星を出発し、星々を巡って、地球に来るのですが、自分の星に残してきた大切な花が、地球ではバラと呼ばれるありふれた花であることに落胆します。
 しかし、砂漠で知り合ったキツネに「apprivoiser (なつかせる)」ことを教えられます。「なつかせる」とは何かと聞かれたキツネは、「créer des liens (絆をつくること)」だと答えます。
 「apprivoiser」 は、「飼い慣らす、てなづける」等と基本的には訳される言葉ですが、ここでは、そのような一方的な関係を示す言葉ではなく、お互いに時間をかけて「なじみになる」という意味で使われているように読めます。
 このことは、ケアの思想の根本にあるお互いに気遣い合うことに通じる考えだといえるのではないでしょうか。
 そして、「なじみになる」には、大人が好きな数字に頼るのではなく、何が好きなのか、何を大事なことと考えているかを聞き、理解することが重要なことを教えてくれます。
 このことも、それぞれが自分の意識・身体を介して取結ぶ世界を尊重するケアの思想を連想させます。
 『星の王子さま』で示される大人の価値観への批判は、有益性や、成果などを重視し、敗者や弱者を切り捨てようとする価値観に対して、人間は相互に気遣い合う存在だというケアの思想を示す物語としても読めるのではないでしょうか。

 それでは最後に、「apprivoiser」についてのキツネの言葉を紹介して、このコラムを終わりたいと思います。

 Tu n’es encore pour moi qu’un petit garçon tout cent mille petits garçons. Et je n’ai pas besoin de toi. Et tu n’as pas besoin de moi non plus. Je ne suis pour toi qu’un renard semblable à cent mille renards. Mais, si tu m’apprivoises, nous aurons besoin l’un de l’autre. Tu seras pour moi unique au monde. Je serai pour toi unique au monde…

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君はまだ僕にとって、他の10万人の子どもと同じ、子どもでしかないんだ。そして、僕は君がいなくてもかまわない。君にとっても、僕なんかいなくてもいいだろう。僕は君にとって、10万匹のキツネと同じ、1匹のキツネでしかないんだ。でも、もし君が僕をなつかせてくれたら、僕たちはお互いを必要とするようになる。君は僕にとって、世界でたった一人の子どもになるし、僕は君にとって世界でたった一匹のキツネになるんだよ…。


〈参考文献〉
キャロル・ギリガン、川本隆史・山辺恵理子・米典子訳『もうひとつの声で――心理学の理論とケアの倫理』風行社、2022年。
ケア・コレクティヴ、岡野八代・冨岡薫・武田宏子訳・解説『ケア宣言――相互依存の政治へ』大月書店、2021年。
榊原哲也『医療ケアを問いなおす――患者をトータルにみることの現象学』ちくま新書、2018年。
村上靖彦『ケアとは何か――看護・福祉で大事なこと』中公新書、2021年。

(訳文の参考のため)
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、稲垣直樹訳『星の王子さま』平凡社ライブラリー、2006年。
サン=テグジュペリ、野崎歓訳『ちいさな王子』光文社古典新訳文庫、2006年。


記事を書いた人:谷田利文(たにだとしふみ)
2007年京都大学文学研究科修士課程、博士後期課程、2012年パリ第10大学経済学科・2013年パリ第8大学社会科学科博士課程。
兵庫県立大学、関西大学、大阪大谷大学、京都大学の非常勤講師、大阪市立大学都市文化研究センター研究員を経て、現在は学校法人北白川学園山の学校、京都第一赤十字看護専門学校、大阪公立大学で非常勤講師を務める。
専門は、17・18世紀フランスの社会思想史・経済思想史。
2024年春ごろ『ひとりで学べるフランス語』出版予定

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