2025.11.28 NEW 著者のコラム 英語が君臨するこの時代に #4 第四回 J. M. クッツェー、英語のヘゲモニーへの抵抗――『ポーランドの人』とSpeaking in Tongues(2) (前回までの記事はこちら)第一回 水村美苗の主張――『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』第二回 ロバート・フィリプソンの主張――英語帝国主義第三回 J. M. クッツェー、英語のヘゲモニーへの抵抗――『ポーランドの人』とSpeaking in Tongues(1) 前回に引き続き、今回もJ. M.クッツェーの英語のヘゲモニーへの抵抗に注目します。彼は幼少のころから英語中心の生活を送ってきましたが、英語を母語ととらえてはいないようです。それはなぜなのでしょうか。今回はこの点からスタートします。 目次「私は一つしか言語を持っていない、ところがそれは私のものではない」根無し草の言語へ「言語的に無の状態」――二つの理由北を介さずにおわりに 「私は一つしか言語を持っていない、ところがそれは私のものではない」 2013年に出版されたポール・オースターとの書簡集『ヒア・アンド・ナウ』のなかに、クッツェーが母語について綴った手紙が含まれています。そのなかで彼は、フランスの哲学者、ジャック・デリダが『他者の単一言語使用』で述べた「私は一つしか言語を持っていない、ところがそれは私のものではない」という主張に出会ったとき、まるで自分と英語の関係を語っているかのように感じられたと書いています。 デリダはこの本のなかで、自己に先行する言語の他者性を明らかにし、母語であっても他の言語と同様に、自分のものとして固有化することはできないことを論じています。とすれば、母語という概念そのものが揺さぶられることになります。母語と呼び得る言語など、誰にとってもあり得ないのかもしれません。ただし、このことをより強く意識できるのは、前回触れた二重言語生活者のように、自らの文化とは隔たりのある言語に習熟し、その言語が示す世界観に違和感を覚えてきた人々でしょう。デリダの主張もまた、彼がフランス植民地時代のアルジェリアの「フランス語を話すユダヤ人のコミュニティー」で育った経験から導き出されているのです。 クッツェーの書簡に戻りましょう。その書簡によれば、彼が二十代でイギリスに渡ったとき、英語ではネイティブに劣らない自信があったけれども、すぐに彼らのようにこの言語を知ることはできないと感じるようになりました。さらに自分の英語は書物から学んだ英語であるのに対し、イギリスに生まれ育った人々は「本能的に("in the bones")」英語を知っているのだと悟ります。曰く、「英語は彼らの母語であり、自分の母語ではなかった」。この言葉には、イギリスの歴史や文化が染み込んだ英語への距離感が表明されているといえるでしょう。 Speaking in Tonguesには、英語がアフリカに「根づかず、根づこうともしなかった、海の彼方から来た支配者たちの言葉のままであり続けた」とクッツェーが述べる場面があります。つまり、英語は南アフリカでアフリカーナーの家系に生まれたクッツェーにとって――二重言語生活者についての彼自身の言葉を借りるなら――「根源的なレベルで異質」であり、英語のなかで彼は「母語話者のようにくつろぐことは決してできない」ということになるでしょう。 そしてクッツェーは今、こうした彼の英語への距離感をむしろ意図的に拡大し、断絶にまでもっていこうとしているのです。 J. M. Coetzee, Mariana Dimópulos著 Speaking in Tongues. Liveright Pub Corp. 根無し草の言語へ Speaking in Tonguesによれば、クッツェーは二十年ほど前から「支配的な言語を完全に使いこなしていること自体」、いいかえれば母語であるかのように、彼が英語に習熟していること自体が、「英語が世界を支配するのは当然だ」という見方を裏づけることになるのではないかと、自分自身の立場に疑問を持つようになったといいます。次第に英語は彼にとって母語でないばかりか、外国語のように疎遠に感じられる言語になっていきます。もはや母語のように英語を使いこなすことへの興味も失われ、彼が書く作品の英語は「より抽象的な性質」を帯び始めるようになります。「一体何が起こっているのだろう」と彼は自問し、そして自分自身に次のように応えるのです。「根無し草の言語、つまり、いかなる社会文化的な故郷とも切り離された言語へと手探りで進んでいるのだ」。 この「根なし草の言語」を、クッツェーは『ポーランドの人』において実現しているといえます。その英語について、クッツェーは次のように語っています。 『ポーランドの人』の英語は、際立って実体感や場所性を欠いています。世界のどこの英語なのか、まったくわかりません(今日、英語が世界の広い地域で書き言葉として使われていることを考えれば、それも自然なことです)。また、多くの優れた文学英語に特有の密度を(意味的にだけではなく音的にも)欠いています。 このような『ポーランドの人』の英語は、物語の内容と直結していると考えられます。というのも、登場人物たちは英語で会話をしますが、彼らの誰一人として英語を母語としてはいないからです。つまり彼らの英語そのものが習得した英語であり、英語本来の場所性を示し得ないのです。彼らの会話からは、「言葉を探して苦労したり、いい間違えたり、あるいは適切な言葉が見つからず、いいたいことがいえなかったりする」様子が浮かび上がります。 J. M. クッツェー著、くぼたのぞみ訳 『ポーランドの人』白水社 J. M. Coetzee著 The Pole and Other Stories. Vintage. 「言語的に無の状態」――二つの理由 クッツェーはこうした『ポーランドの人』の英語について、「言語的に無の状態」にあるといい表し、その理由を二つ挙げています。一つ目の理由は、この小説の執筆時に、「母語的栄養分」と彼が考えるものを「意図的に」絶ったためです。「母語的栄養分」とは、前述の「実体感や場所性」に関わるものと考えられます。つまり英語の「社会文化的な故郷」を示唆し得る要素を、クッツェーは故意に抜き取ったのです。 ちなみに前回、この作品にはスペイン語訳から英語を含めた他の言語への翻訳を行う計画があったことをお伝えしました。この計画も「言語的に無の状態」という地点から近いところにあると考えられます。「言語的に無の状態」である以上、『ポーランドの人』の言語が英語である必要性は希薄になるはずだからです。 また二つ目の理由について、クッツェーは次のように語っています。 この作品に着手したころにはすでに、英語が世界規模の政治的権力を持つことに深刻な懸念を抱くまでになっていました。そして自分自身と英語の個人的な断絶を強調したいと願っていました。 クッツェーが英語に対して距離感を抱いてきたことは先述のとおりですが、ここには意図的にまた積極的にその距離を押し広げ、断絶を強く打ち出そうとする彼の姿が見えます。つまりクッツェーは彼が感じてきた以上の距離をここで表現しようとしているのです。そしてその結果の一つが『ポーランドの人』における「言語的に無の状態」の英語であるといえます。いいかえればこの英語は、クッツェー独自の、英語という言語そのものを通じた、英語のヘゲモニーへの抵抗であるのです。 北の門番たちへの不安 クッツェーが懸念を表明している英語の「世界規模の政治的権力」とは、一つには英語が、英米、ことにアメリカの利益や価値観を世界に押し広げる仕組みとして機能していることを指しているといえます。 英語から他の言語への翻訳と、他の言語から英語への翻訳には、大きな不均衡があります。いうまでもなく英語から他言語への翻訳の数が、圧倒的に勝るのです。ちなみに第一回で取り上げた水村は「アメリカで出版される全書籍のうち、翻訳本が三パーセントしか占めない」と書いています。 クッツェーは彼自身の作品がさまざまな言語に翻訳され始めたころ、すでにこうした状況が目立っていたことを振り返り、「英語圏の人々は外の世界に無関心でいられたが、外の世界は英語圏、特にアメリカを無視する余裕がなかったからだ」と、その理由を説き、そのため「外国人が英語圏の書物を自国語に翻訳したがるのは当然である一方、外国語から英語への翻訳は一種の名誉の証だった」と述べています。 こうした不均衡に加えて、「外国語から英語への翻訳では、文体が驚くほど画一的」であることを、クッツェーは翻訳研究の第一人者、ローレンス・ヴェヌティを引いて指摘しています。ヴェヌティによれば、英語への翻訳において「文体や内容があまりにも「外国的」に見える本は無視され、英語圏の読者の嗜好に合った本だけが、アメリカやイギリスの読者が読みやすい英語の文体で翻訳され、〔……〕原作にある野生味を抑え込む」のだといいます。 こうした状況は、英米の価値観が一方的に世界に拡散されることを意味すると同時に、英語圏という大きな市場で成功しようとするならば、その価値観に合わせざるを得ないことを示唆しているでしょう。 クッツェーは、ヴェヌティの指摘が「北半球の出版業界、ひいては文化産業全般が南半球の文化流通に行使する支配力への私自身の不安と一致している」と述べ、特に「北の文学の門番たち(エージェント、編集者、批評家、教師、学者)が、南の文学に対して行使する支配力」への不安を表明しています。 北を介さずに 『ポーランドの人』に話を戻しましょう。 前述のスペイン語訳から翻訳を行うという計画は、各国の出版社が承諾せず、実現できませんでしたが、実現していれば英語から他言語へという方向性を回避できたでしょう。さらにスペイン語訳を制作する作業は、翻訳者のディモプロスがいったん訳したのち、クッツェーとともに一行ずつチェックするという形で行われました。そして、彼の「英語がスペイン語による再構成を拒む場合には、むしろ英語のほうが道を譲り、書き直された」のです。あたかも英語の中心性を抜き取るような試みです。もちろん、そこには翻訳書や翻訳者の二次的地位に対するクッツェーの懐疑が働いてもいるのですが、今回はその点については置きます。 さらに『ポーランドの人』は、最初にアルゼンチン(2022年)、次いでオーストラリア(2023年)で出版されました。つまり北より先に南で出版されたのです。『ポーランドの人』を含む近年の作品を、クッツェーは同様の形で出版しています。そうすることによって、南に届く前に「北の門番の審査を通過する」必要がなくなるからです。いいかえれば南に対する北の支配を封じるためなのです。 ちなみにクッツェーは2015年から三年にわたり、北を介さずに南の文学や文化を検討することや南側の交流を促すことを目的として、アルゼンチンの大学で特別講座「カテドラ・クッツェー」を開いてもいます。 おわりに 世界は「自然に見えるままのものではなく、それを理解するための言語によって構成されている」とクッツェーは語っています(第三回掲載)。この言葉は異文化間のコミュニケーションの難しさを物語ってもいます。けれども外国語を学ぶことの価値をそこに、すなわち自分のものとは異なる世界観を多少とも理解することに、見出すこともできるのかもしれません。 一方で英語はしばしば世界語と見なされます。けれども英語もまた、英語ならではの世界観を持った一つの言語です。「社会文化的な故郷」から完全に自由な言葉ではないのです。便宜的に英語を普遍語と呼んだとしても、現実的には普遍語というものは存在し得ないでしょう。それこそ「聖霊」の力なくして、どうして七千以上といわれる言語の世界観を縦横無尽に横断し得るでしょうか。世界語、普遍語といった言葉はもう時代遅れなのかもしれません。 英語が君臨するこの時代もまた、「時代」という言葉によって、その移ろいを滲ませています。例えばSpeaking in Tonguesには、現時点で論じるのは時期尚早だけれども、AIによる翻訳技術の進展が文学創作や翻訳作業、さらには出版業界全体にまで影響を及ぼすことになるだろう、と記されています。時代の変化の芽はこんなところにも息づいているのかもしれません。 川村 由美(かわむら ゆみ)早稲田大学大学院人間科学研究科ほか非常勤講師。桐朋学園大学音楽学部演奏学科を卒業後、音楽および舞台全般に関わる雑誌編集等を経て、早稲田大学大学院文学研究科に進学し、同大学院博士課程修了。博士(英文学)。著書に『J・M・クッツェー 命をめぐる思索――『夷狄を待ちながら』から『恥辱』へ』(水声社 2025年)。